2013年12月19日木曜日

原稿用紙換算枚数について考える

さて、新人賞に小説を投稿したことのある方ならだれでも一度は悩んだであろう問題がありますね。そう、原稿用紙換算枚数というものです。これが実にクセ者なのです。

昔、実際の400字詰めの原稿用紙に作品を書いて投稿していた頃は何の問題もなかったのでしょうが、もうだいぶ前から執筆はワープロやエディタとなっています。となると、このデータを原稿用紙の枚数に「換算」するとき、厄介な問題が出てくる。一言で「換算」といっても、いくつかのやり方が思いつくのです。


具体的には、以下の三つで迷うでしょう。

1:ワードなどで字数カウントし、これを400で割る。

2:原稿をいったん20字×20行の設定にして、そのページ数を数える。

3:募集規定が30字×40行の場合、これを原稿用紙3枚分と考える。

まず、一つ目のやり方はアウト。これだとスペースや空白がすべて無視されてしまいますからね。そういったものも含めて作品であり原稿なので、このやり方は論外。問題は二つ目と三つ目。

どちらかというと、2の方が妥当な気がします。「原稿用紙に換算」というのを字義通り取れば、このカウントの仕方がベストのはずです。ただ実際、ワープロ原稿での応募となると、30字×40行とかの指定が多い。ならば、この指定に従った場合の原稿一枚を原稿用紙3枚と数える方がわかりやすい気もする。なので、このやり方を推奨する方もおります。

はゆま荘
そもそも、新人賞は大体募集過多の状態で、それを裁く選考側の人員は下読みも含め常に不足気味だ。そして募集媒体はこのIT時代でも紙ベースのところがほとんど。一次選考や 二次選考の段階で、いちいちそれを電子スキャンするだろうか? また、さらにそれをわざわざ面倒な[20字×20行に直すやり方]……の手順を使って、原稿用紙換算するだ ろうか? そんな暇はないはずだ。
下読みの仕事はまず原稿を落としふるいにかけること。内容については、どうしても主観的な好き嫌いが入るが、枚数制限ならいやおうなしの客観的な基準だ。引っかかっているものがあれば、これ幸いと落とすだろう。そして、数少ない客観的な基準については、出来るだけ単純に、すぐ判断できるものにするはずだ。
 原稿用紙を受け取り、最終ページ番号を見る。40×40で、105ページ。あら~、5ページ、原稿用紙換算で20枚オーバーしてるね。はい残念でした~

実にもっともな意見です。しかも、この方はすでにデビューされているプロなので信憑性があります。3の方法が正しいのか……?

ところが、です。だとすると大きな問題が出てくる。「手書きでも印刷でも、どっちでも受け付けるよ」という新人賞の場合、どちらで応募するかによって、実質的な原稿の下限・上限に違いが出て来てしまうのです。

どういうことか。

同じ分量の作品でも、実はやってみると、3でカウントした方が「枚数」が多くなるのです。たとえば、私の手許にある自分の原稿でやってみた場合、20字×20行のレイアウトにすると306枚ですが、30字×40行の1ページを原稿用紙3枚分と考えると、329枚となってしまいます。この差は大きい。もし、「前者なら規定内だけど後者だとオーバー」なんてことになれば由々しき問題です。まったく同じ作品なのに、原稿用紙に書くかワープロ原稿にするかで応募の可否がわかれるというのは不合理でしょう。

ということで、やはり2の方法、20字×20行に設定してカウントするが妥当だと思います。いちばん素直なやり方ですしね。これまでもそうしてきたし、それで一次二次の選考も通ってるし、きっと大丈夫さ!


2013年12月15日日曜日

エンタメ系新人賞のまとめ

私なりにエンターテイメント系で長編を対象とした新人賞に絞ってまとめています。随時更新。

(最終更新日 2016/01/16)


小説現代長編新人賞(講談社)
〆切 1月末   枚数 250-500枚
賞金 300万   応募総数 約800
(一次通過以上するとWEBにて短い選評をもらえるようになった。応募もWEBで受け付けるようになり、変化しつつある賞)


日本エンタメ小説大賞(日本エンタメ小説大賞実行委員会)
〆切 2月末   枚数 300-600枚
賞金 20万     応募総数 約280
(映画の原作となりうる小説であることが条件)


小説すばる新人賞(集英社)
〆切 3月末   枚数 200-500枚
賞金 200万   応募総数 約1400
(エンタメ系では最高峰の賞。有名作家を輩出。二次通過以上で編集部から誌上でアドバイスをもらえることがある)


電撃小説大賞(アスキー・メディアワークス)
〆切 4/10    枚数 250-370(短編は42-100)
賞金 300万など 応募総数 約6500
(国内最大級の新人賞。基本ラノベだがライトな一般文芸でもいけるかも。大賞以外にも複数の賞がある。一次通過以上で選評がもらえる)


スマホ小説大賞(E★エブリスタ)
〆切 5/31    枚数 6万字以上、上限なし
賞金 なし    応募総数 約9900
(大手出版社が多数参加する超大規模な賞。ラノベ、恋愛、エンタメ、映像化賞などさまざまな部門がある)


ポプラ社小説新人賞(ポプラ社)
〆切 6月末   枚数 200-500枚
賞金 200万   応募総数 約600
(ライトでポップな青春ものが多い印象。最終まで編集部が選ぶ)


本のサナギ賞(Discover21)
〆切 7月末   枚数 200-500枚
賞金   50万   応募総数 265
(2014年開始。書店員が選考に参加。受賞作は初版二万部が確約され、電子出版もされる。初年度は一次選考通過が265本中9本という狭き門だった)


ダ・ヴィンチ「本の物語」大賞
〆切 7月末   枚数 250-350枚
賞金 100万   応募総数 約220
(本・物語・作家などが作中の重要なモチーフとなっていることが条件。読者審査員・書店審査員がいる。大賞以外の賞もあり)


野性時代フロンティア文学賞(角川書店)
〆切 8月末   枚数 200-400枚
賞金 100万   応募総数 約900
(規模が大きい割に一次通過率が高い。2014年から選考委員を変更。賞金額は300万から100万にダウン)


小学館文庫小説賞(小学館)
〆切 9月末   枚数 40字×40行で75-150枚(原稿用紙で約300-600枚)
賞金 100万   応募総数 約600
(編集部が選ぶ。受賞作では『神様のカルテ』が有名)


角川春樹小説賞(角川春樹事務所)
〆切 11/25   枚数 300-550枚
賞金 100万   応募総数 約400


松本清張賞(文芸春秋)
〆切 11月末   枚数 300-600枚
賞金 500万   応募総数 約400(?)
(推理・時代小説に限らず、あらゆるジャンルを受け付けている。読者の年齢層が高めの硬派な作品が受賞している印象。だったが第22回は学園モノが受賞した)


暮らしの小説大賞(産業編集センター出版部)
〆切 12/15    枚数 200-500枚
賞金 なし   応募総数 約330
(2013年から開始。衣食住のうち一つをテーマとした作品を募集)



メフィスト賞(講談社)
〆切 随時募集  枚数 40字40行で85-180枚
賞金 なし    応募総数 ?
(どんなジャンルでも可。応募された作品はすべて編集者が読む、持ち込みに近い賞。2014年あたりにリニューアルされ、枚数制限が設けられた)


ボイルドエッグズ新人賞(ボイルドエッグズ)
〆切 年1-2回    枚数 200-500枚
賞金 なし    応募総数 約40
(出版エージェントの村上さんが一人で選ぶ。応募には登録料7,000円が必要。受賞作は競争入札の末、落札されれば出版。しばらく「受賞作なし」が続いている。)

2013年12月13日金曜日

野性時代フロンティア文学賞 一次通過

もはや月一更新のようなありさまですが、どうもこんばんは、清水 Airです。

さて、毎月12日は角川書店の小説雑誌、野性時代の発売日。大学へ行った私は書籍部に赴き、野性時代1月号を買おうとしました。

ウィーン。
「いよぉ、姉ちゃん! 野性時代ひとつ包んでくれる?」
「申し訳ありませんお客様。当店ではそのような雑誌はお取り扱いしておりません」
「て、てやんでぃ! なんで野性時代がねぇんでぃ?」

といったやり取りはありませんでしたが、棚を見たところ、ないのです。他の小説雑誌、文芸誌などはけっこうあるにもかかわらず、野性時代が見当たらない。私は残念な気持ちで書籍部をあとにいたしました。あ、あと、自動ドアでもありません。

次に足を運んだのはツタヤです。大学からもっとも近い本屋さんです。

ウィーン。
「いよぉ、兄ちゃん! 野性時代ひとつもらえるかい?」
「申し訳ありませんお客様。当店ではそのような雑誌はお取り扱いしておりません」
「べ、べらんめぇ! てめぇんとこはTポイントカードっつぅ面倒なもんをまき散らしてるだけかい、ちくしょうめ!」

といった暴言は吐いておりませんが、なかったのです。もしかして、そもそも野性時代なんていう雑誌は存在していないのではないか? そんな疑念さえ脳裏をよぎります。

しかし、最後の希望をかけ、私は大きめの大垣書店へ向かいました。冷たい風をきり、自転車で烏丸通をくだります。

そうしてたどりついたそこで、私はとうとうお目当てのものを発見したのです。

ウィーン。
「おぅおぅおぅ姉ちゃん! はっはー、ここにあったか。ひとつ、いいのを見繕って包んでくんな」
「かしこまりました。当店では野性時代を毎月豊富に取り揃えておりますので、ぜひごひいきによろしくお願いします」
「おぅ、がってんだ。にしても、こいつぁ大漁だな。10冊も積んでやがら」
「ええ。他の店舗に卸すはずの分もすべてうちに回して頂くようにしていますので」
「て、てやんでぃ! 書籍部とツタヤになかったのはてめぇんとこのせいかいべらぼうめっ!」

という会話はしていませんが、はれて、野性時代を入手することができたのでありました。

で、なぜこんなに野性時代を欲していたのかと言えば、去る8月に応募した野性時代フロンティア文学賞の一次選考通過作品が、1月号にて発表されているからです。

ドクンドクン。私は、胸の高鳴りをおさえながら、当該の頁をチェックしました。応募総数は973作品、一次通過は137とのことです。細かな文字で、通過作品のタイトルと名前がびっしり並んでおります。

そうして……あ、ありました! 私の応募した作品のタイトルが!

ということで、晴れて一次選考通過とあいなったのです。いやぁ、よかったよかった。二次通過作品の発表は来月号ですが、そこでもまた、自分の作品のタイトルと名前があればいいなぁと思います。ちなみに私は埼玉生まれ埼玉育ち、京都在住であり、江戸っ子ではありません。

2013年11月18日月曜日

アドバイスもらったよ

あ、そういえばブログなんてやってたっけ?

というレベルでこのブログの存在を忘れていました。けど、たとえ何ヶ月あいだが空いてもまた更新するというのが当店の売りなのです。

さて、この間、私は名前を変更しました。いえ、追加、といった方が正確ですね。もともとは清水というそっけないものだったのですが、このたび、清水 Airと名乗ることにいたしました。以後よろしくお願いします。Apple社が大好きです。

そんなことはいいとして、去る16日に発売された小説すばる12月号にて、集英社編集部様より拙作へのアドバイスをいただくことができました。以前、新人賞に応募して二次通過したと書きましたが、なんと誌上にて長所・短所の指摘をしてもらったのです。

これまで何度か(前回はだいぶ前ですが)新人賞に作品を応募しましたが、反応をもらえたのは初めてのこと。というか、普通は最終選考に残らなければコメントなどもらえないものです。ほんとにありがたい。だれかが自分の作品を読んでくれて、笑ってもらえたと思うと、今後のモチベーションもあがります。集英社が大好きです。

では、またいつか。

2013年10月19日土曜日

いまMacBook Airを買うなら

さて、今回はMacBook Airの購入について、あれこれ書き散らしてみようかと思います。

ええ、買いました。2013年モデルの、11インチの、最新型MacBook Air(以下、MBA)。これで通算4代目のMacです。いやはや、長い付き合いになったものです。

これを買ったのは、自宅以外でもスピーディーに文章執筆がしたいと思ったからです。これまでは小説を書くとき、いつも初稿は大学ノートに手書きでしていたのですが、キーボード入力と比べた場合の遅さにがまんならなくなり、とうとう購入に至ったのです。

その過程で、MBAについていろいろ調べました。なので、その成果を以下でご紹介したいと思います。



2013年10月5日土曜日

本を捨てよ

最近は、本を捨てることにハマってます。

一人暮らしをはじめてはや八年、なるべく不要なものは持たないと決めて、なるべくさっぱりした部屋で暮らそうと心がけていたのですが、どうしても溜まってくるのは本でした。これだけは、買わないわけにはいかなかった。

で、どうなったかと言いますと、部屋の空間内にある物質のうち、重量のおそらく七割が本という状況に。収納部分は、衣類を除けば、ほぼ本になってしまいました。

それでも、きれいに整理はしていたのです。なるべく見栄えがいいよう、あるいは見えないところへ、本をきちっと入れておいたんです。んが、十日ほど前、とうとう私の中で何かが切れました。プツリと、切れました。

よし、本を処分しよう。

何かに取り憑かれたかのごとくそう決心した私は、本の大量虐殺に取りかかりました。ライトな本で状態のいいものはリュック、バッグなどに詰め込み、重みでよろよろしながら自転車で近所の古本屋へ。100冊2000円ほどで投げ売ります。これを三回ほど繰り返した。買い取り不能であろう状態の悪いものはビニールテープで縛って古紙回収へ。これも腰が痛くなるくらい繰り返しました。

さらに、割としっかりした専門書などはちゃんとした古書店へ行き、これは10冊7000円ほどで売りました。7000円というと高いようですが、買ったときは何万とした高価な本です。しかし気にしない。本を処分すると決めたのだから……。

そうして、あらゆる古典文学、哲学書、専門書、新書、小説などが部屋から排除されてゆきました。さようならプラトン、さようならホメロス、さようなら芥川、さようなら漱石、さようなら辞書たち……。

やはり、本というのは大切な存在ですから、これを捨てる、売り飛ばすのは心が痛みます。私という人間の精神を形成してきた血肉のようなものですから、まるで肉体をもぎとって捨て去るような苦痛が生まれます。けど、本当はこれが正しいのだと思うのです。本は消耗品、いや、食料のようなもの。それから精神の栄養を得たのなら、その本は、手放すべきだと思うのです。

つまり、これまでの私は、食い物でたとえるなら、サンドイッチの包み紙や弁当のプラスチック容器、バナナの皮やカニの甲羅をコレクションしていたようなものだったのです。ええ、そうに違いないのです。そんなのは不健康なことです。

実際、かなり本の少なくなった部屋にいると、すごく開放的な気分になります。まるで、大学に入り、ほとんど本のないまっさらな部屋に越して来たときのような、オープンな心境になれます。事実、大学学部時代から取っておいたレジュメ、ノート、レポートのたぐいもみんな捨てましたから、ほんとに、生活がまっさらな状態に戻ったような心境なのです。窓から吹き込む風も、いつもよりさわやかです。

思うのですが、部屋に目下使用していない物質があるというデメリットはかなりでかいのです。なにか、無意識のレベルで人間の心に重圧をかけているような気がします。ものを捨てるというのは、次のステップに進むための重要な行為のような気がします。

デカルトも『方法序説』で言っていました。新しいものを構築するためには、まず、いまあるものをすべて破壊しなければならない、と。ま、すでに『方法序説』も捨てたので、正確な文章は引用できませんが、そういうことです。

生活に行き詰まり感がある、心機一転したい、そんな人には、本の八割を捨てることをおすすめします。

2013年9月21日土曜日

Dr.SLUMPがすごい

Dr.SLUMPという漫画がめちゃんこおんもすれぇだがや。

さて、今更なにをおかしな口調で言っているのかとお思いの方もいるでしょう。けど、私は言いたい。今更ながら言いたい。Dr.SLUMP、めちゃんこおもしろい。

多くの方はご存知でしょうが、これはあのドラゴンボールでおなじみの鳥山明さんがかつて書いていたギャグ漫画です。ま、アラレちゃんと言った方が伝わりやすいかもしれません。その昔、アニメにもなった人気漫画です。

ただ、意外と最近のティーンあたりは、意外と読んだことがないと思うのです。本屋に行っても漫画喫茶に行っても、ドラゴンボールはあれど、Dr.SLUMPはあまり見かけないので。いやいや、しかし、ぜひAmazonなどで入手して読んで欲しい。

概要は、センベイ博士というスケベーな科学者がアラレという名の完璧な人造人間を作成し、すったもんだが起こるというものなのですが、とにかく何でもアリの話なのです。太陽や月は普通にしゃべるし、舞台となるペンギン村にはウルトラマンやバルタン星人がはしゃぎまわっているし、アラレの通う高校の校長はイノシシだし、他に例のない突拍子のなさ。これに比べれば暗殺教室も銀玉もこち亀も、実にリアルな作品です。写実主義だと括っていい。

しかも、最近まずお目にかかれないメタなネタも盛りだくさん。コマをぶち抜いたり、書き込みのセリフをキャラが持って振り回したり、作者が登場したり、やりたい放題。いやもう、鳥山明、頭狂ってる。

こんなはちゃめちゃな漫画を、昔読んだ方も、まだ読んだことないという方も、ぜひ楽しんで欲しいと思います。

ちなみに、私が好きなキャラクターはスッパマンです。

2013年9月17日火曜日

小説すばる新人賞 二次通過

なかなか久しぶりの更新になってしまいました。

さて、一昨日の夜、ここ京都ではたいへんな大雨が降りまして、私は眠っている最中、布団ごとどんぶらこどんぶらこと川を流されてしまいました。朝、目が覚めてみると、そこは大海原のど真ん中。たいへんびっくりしました。

おやおや、いったいどうやって帰ろう。私は海水に浮かぶ布団の上であぐらをかき、考えました。いかんせん通信手段がございませんから、某人気アナウンサーのように救助を呼ぶことができません。致し方なく、私は親切な鯨が通りかかるのを待ち、いざ鯨が現れたら「陸まで乗せて行ってくれ」と頼みまして、そうして、何とか無事に戻ってこれた次第です。

それが本日の朝のことですが、海から上がり、びしょ濡れのからだのまま、私はまず書店に向かいました。そこで手に取ったのは集英社発行の小説すばる10月号。ここに、私がチャレンジしていた小説すばる新人賞の二次および三次選考通過作品が掲載されているのです。

手が濡れていたこともあり、なかなかページをめくるのに苦労しましたが、もくじを調べた上で当該のページを見てみますと、ななな、なんと、そこに、私の応募した作品名と名前が掲載されておるではありませんか! 二次選考通過です!

ま、三次で落選はしたのですが、今回の作品は自分でも未熟だと感じており、二次を通れば御の字です。1435編もの応募作品の中で、わずか36編の二次通過作に選んでもらい、これで、ある程度自信が持てるというものです。励みになります。

おそらく来年も同じ賞に応募しますが、今度は弱点を克服し、ベスト1になりたいと思います。ということで、新作のプロットを立てる前に、まずはからだを拭いて風呂に入りたいと思います。

2013年9月3日火曜日

岩崎夏海がおもしろいよ

岩崎夏海という人をご存知でしょうか。

たぶん、知らないという人が多いと思いますが、こう言えばわかるでしょう。『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』、通称もしドラの著者です。

わたしはこの本を読んだことがありませんし、その著者なんて気にしたこともなかったのですが、ニコニコ動画の生放送でたまたまこの岩崎さんという人を知り、ファンになりました。岩崎さんは通称ハックルさんと呼ばれていますので、以下、そう呼びます。

ハックルさんはもともとAKB48のプロデューサーとして名高い秋元康さんの弟子だったそうです。で、テレビの仕事(放送作家だったか?)をしていたんですが、数年前にもしドラを書き、200万部越えの大ヒットを飛ばしたのだということです。

ハックルさんは毎週ニコニコ生放送をやっていて、そこで四方山話をしたり、現在進行中の書籍関係のプロジェクトについて語ったりしているのですが、いや、おもしろいのです。話が。キャラが。なかなか他では見られないタイプの人です。

たとえばハックルさんは、芸人的なノリをまったくしません。いわゆる、ボケたり突っ込んだりということをしないのです。そういうノリは、プロの芸人でなくても、ネットで放送するとなればある程度してしまうものでしょうが、彼は一切そういうノリを禁じているのです。そこが逆におもしろい。どこまでも素で会話に臨む、という姿勢が、逆に独特のキャラとなっていて笑えます。

それから、自分を天才であると言っています。普通は、「自分なんか凡人ですよ」と謙虚な姿勢を貫くか、あるいは「おれは天才なんだ!」と声高に言うか、どっちかのパターンが多く、たいがいは前者だと思うのですが、ハックルさんはしれっと、さも当たり前のように「ぼくは天才なんですよ」とおっしゃるのです。年齢や血液型を言うのと同じトーンで。そのしれっとした感じもおもしろいし、それに対するゲストの反応もおもしろい。

こうしたおもしろさの源泉は、おそらく不遇感にあると思います。小谷野敦さんにも共通するものがありますが、「なぜおれのすごさが理解されないんだ!」という根底にあるドロッとした感情が、独特のユーモアを生み出しているんです。たぶん。

ただ、なかなかあのおもしろさを文章で表現するのは難しいので、ぜひニコニコ動画で「ハックルベリーに会いに行く」で検索し、動画を見てもらいたいと思います。毎回、最初の一時間ほどは無料で見れますので。

2013年8月26日月曜日

グルラボ 孤食民の救世主

グルラボ、というものをご存知でしょうか。

いえいえ、回転している研究室ではございません。これは、一見ただのタッパーに見える、万能調理器具なのです。



半月ほど前、実家に帰り、また京都へ戻ろうというとき、母にグルラボを手渡されました。「これを使いなさい、清水」と言われて。わたしは、「はい、お母様」とこたえてそれを受け取りました。「これは魔法の容器です。これに食材や調味料を入れ、電子レンジでちんすれば、ありとあらゆる料理ができるのです」母はそう言い残すと、山賊どもに連れてゆかれました。

で、わたしとしてはかなり半信半疑でした。まっさか、こんな、ちょっと頑丈そうなタッパーウェアで何ができるのかと。せいぜい食べ残しのカレーを温められるくらいだろうと。

けれども、実際に付属のレシピをみて、その通りに肉や野菜や調味料などをグルラボに投入し、レンジで数分チンしますと、あら不思議。しっかりした料理のできあがりです。ホイコーローがうまそうな匂いをはなっているではありませんか。

それから、ジャガイモをあらって5分ほどチンしますと、それはもう、ホクホクになっているのです。わずか5分です。あとはもう、キュウリとタマネギを切って混ぜれば、ポテトサラダの出来上がり。

他にも、レシピを見てみますと、可能な料理の幅はめちゃめちゃ広く、肉や魚料理はもちろん、ごはんだって炊けるし、パスタもいけるし、パンも焼ける。なかには焼きそば、なんてのもある。そんな、焼きそばのアイデンティティを根本からへし折ることもできちゃう。

こうなりますともう、自炊をするとき、フライパンも鍋も必要ありません。なんせ、もう、すべてが電子レンジでできてしまうのですから。そう、このような魔法は、グルラボという容器と電子レンジという機械によって可能になったものなのです。グルラボ×電子レンジ=マジック。

ああ、わたしは、これまで独りぐらしで8年も電子レンジを使いながら、まったくこいつのポテンシャルを発揮させられていなかったんだ。と、わたしはしみじみ思いました。せいぜい牛乳やごはんを温めるだけ……そう、温めることにしか使っていなかったのです。けど、違うのです。電子レンジの用途は、「温め」ではない。「料理」なのです!

さらに言うなら、グルラボの優れているところは、一人前や二人前の少量をかんたんに作れることです。一人暮らしにぴったりなのです。もうね、これから一人暮らしで自炊するという人は、フライパンとか鍋とかIHコンロとか買わなくていい。炊飯器と電子レンジとグルラボでいい。それで十分すぎるほど十分です。それだけで、あらゆる料理がインスタント食品気分でできてしまうのですから。

グルラボ、どうぞお試しください。

ちなみに、この記事はステマではございません。

2013年8月22日木曜日

kindleに振り回されて

もはやこれは、形而上学です。

事のはじまりは数時間前、Amazonで購入したあるブツが届いたときです。

そのブツとは、kindle paperwhite。

そう、いま話題の電子書籍です。数ある端末のなかでも、アメリカですでに普及し、いよいよ日本上陸となった最先端のデバイス。わたしの胸は踊りました。ああ、これで紙の本が溜まってゆく現状を変えられる。カフェなんかでkindleを取り出して指でスッスと画面をこすれば、わたしもかっこいいIT民だ、と思いました。

さっそくダンボールをあけ、スターウォーズのハンソロばりにビニールで密閉された黒い箱を取り出し、中身を取り出しました。姿をあらわしたkindleは黒くて実にシンプルな、シックなデザイン。さながらapple製品のようです。日本のもっさい企業では、こうはつくれますまい。おい、CASIOにSEIKO! なんでappleとかAmazonにタブレット市場を取られとんねん! 電子辞書とかで培った技術はどうしたっ!?

おっと、すみません。つい罵詈雑言が出てしまいました。閑話休題。

で、kindleをUSBケーブルで接続し、スイッチオン!

そうしますと、まるで紙の上のインクのような文字が表示されました。おお、さすが、paperwhiteというだけのことはあると感心します。

さて、ここからが問題です。問題でした。愛用のiMacにkindleを接続させようとするのですが、これがまったくうまくいかない。というか、わからない。わたしはかつてないほどの疑問の渦に投げ込まれました。

kindleいわく、「Wi-Fi接続するけぇ、無線のアレを検索すんでぇ」。で、少し待ってみたのですが、どうも、iMacに接続されてる気配がありません。

kindleいわく、「検索したら、5つくらいあんで」。で、実際、その画面には意味不明な数字や文字の羅列が、5つばかり並んでいるのです。しかし、それらのうちの一つが、果たしてわたしのこのiMacのものかどうかは謎です。というかおそらく、どこか他の部屋から漂ってきた「迷いWi-Fi」でありましょう。

ここからわたしの苦闘がはじまりました。なんとかして、kindleとiMacを接続させなければならない。出会わせなければならない。こんなに距離は近いのに、物理的にはほんの30センチほどなのに、まだ出会わぬ二人を、Wi-Fiという糸で繋がなければならない。

ということで、iMacの方をいじり、何とかしようと試みます。けど、Wi-Fiがない。っていうか、そもそもWi-Fiが何であるかを、わたしは知らない。ウィーフィーではなく、ワイファイと読む。それだけは知ってる。あと、無線で電子機器を繋げるなにか、だというのも知ってる。無線というのは、ケーブルを用いないことだというのも知ってる。漢字を見ればわかる。糸電話は、有線接続。携帯電話は、無線接続。ここは確実だ。けれども、Wi-Fiが何か、よくわからん。

しかし、わたしも馬鹿ではありません。偏差値60オーバーの頭脳をフル回転させて考えます。おそらく、Wi-Fiというのは、無線接続の一つの方法なのです。そう、方法。あるいは規格。他にも、EthernetとかAirMacとかBluetoothとかがある。「青い歯って何やねん」とは思うけれども、それはたしかに思うけれども、わかる。携帯電話とか、それで接続できるんだ。あと、FireWireというのもある。あった気がする。それは何に使うのか知らん。でも、いろいろあるんだ。っていうか、なんでそんなにいろんな無線通信の方法が用意されてるのかわからん。一つに絞れよ、とは思う。けど、今は、この疑問は飲み込もう。とにかく、あるものはあるのだ。その現実は受け入れよう。

というわけで、Wi-Fiは接続方法ないし規格である、という事実(?)をついに探り当てたわたしでしたが、iMacの「ネットワーク」という部分を開いてみても、Wi-Fiの文字が見当たらない。上記の、EthernetとかBluetoothとかAirMacとかは見つかるけど、Wi-Fiなんて言葉はどこにもねぇ。

さて、困りました。

しょうがなく、右上にある検索ボックスで「Wi-Fi」と入れてみますが、それらしいものは出てきません。ここで一つ、疑念が生じます。ひょっとして、このiMacにはWi-Fiの機能が搭載されていないのではないか、と。けど、すぐにそれは否定しました。このiMacはまだ買ってから3年ほどしか経っていない。OSだって10.6で、そう古くはない。きっと、この薄めのボディの中にも、Wi-Fiは入っているはずだ。どんな形かわからないが、確実に入っているはずだ。そう、信じました。

で、こんどはいよいよGoogle先生に泣きつきました。さまざまな文字列を打ち込んで検索してみます。まあ、kindleとiMacの接続を、そのまんま、フルで解説してくれてるページがあればいいなと期待しつつ、「kindle iMac Wi-Fi」などと入れます。英語のページがズラッと出て来て、チッと舌打をし、今度は「接続」と、日本語を混ぜて検索し直します。ですが、なかなかこれぞというページが出て来ない。だめです。

この時点で、もうかなりイライラしています。

でも、それでも、スタイリッシュな電子書籍ライフを夢見て、ネットの海をもがき続け、しばらくして手に入れた情報は、「Wi-FiはAirMac」というものでした。

いえ、たぶんこれは正確なことではございますまい。Wi-Fi=AirMacなどと、そんなことはないでしょう。きっと、互換性があるとか、そういった意味のことだと思います。でも、そもそも意味のわからない二つのものが、互換性のようなものがある、とわかっても、もうすでに、わたしの頭のキャパは越えております。なんだこれ、形而上学か。『純粋理性批判』の方がまだわかりやすいぞ。kindle metaphysicsかこれ。

けど、おそらく、AirMacの機能があればiMacとkindleを繋げられると信じて、わたしは作業を続けました。kindleを片手に、ネットワークを模索します。「ネットワークを模索する」という言葉も意味不明ですが、しょうがないんです。意味不明なんですから。とにかく、がんばったのです。

で、結局、kindleにiMacのAirMacを検知させることはできず、しかも、AirMacのパスワードもわからないので、ついに、わたしは断念しました。思わず、kindleを乱暴に机に置き、畳に寝転んでしまいました。完敗です。

そもそも、AirMacのパスワードがわからないんじゃどうしょもないし、AirMacのパスワードというのが何なのかも理解できないし、正直、AirMacが何かもよくわかっていないし、もう、無理です。無理なんです。完敗なのです。

数分ほど、わたしは畳の上に仰向けになり、天井の照明を見つめながら呆然としました。本来、kindleというのは便利なもののはず。テクノロジーが、読書に革命をもたらしてくれたはず。快適で楽しい読書生活を与えてくれるものだったはず。なのに、わたしは一文字も電子書籍を読まないまま、すでに、打ち砕かれ、打ちひしがれ、疲労困憊しているのです。紙の本なら、Amazonから届いてすぐにパッと開いて、何の設定もせず、読むことができたはず。それが何さ……。わたしはどんどんいじけてゆきました。

やっぱり紙の方がいいんだ。本といえば紙だ。紙の本はすぐ読める。落としても壊れない。充電も必要ない。かさばるのはいやだけど、逆に言えば物質として残るということで、やっぱ紙がいいよ。羊皮紙に比べれば、ぜんぜんコンパクトでかるい。石板の時代よりは、ずっと便利になった。巻物より読みやすい。紙で満足しようじゃないか。kindleなんか要らないんだ。こんなもんはスクラップだ。

と、いじいじと考えていました。

けど、しばらくして、ふと部屋の周囲をみまわすと、そこにはたくさんの本、本、本。カラーボックスには前後二列にわたってぎっちりと、本。奥には岩波文庫がぎっちり。おそらく一生読まないホメロスの『イリアス』が、手前の円城塔『道化師の蝶』の横からのぞいておる。あっちでは、勢いで買ったけど読んでない『現代言語学入門4 意味と文脈』が、ピンチョン『ヴァインランド』の奥に見える。それから、たくさんの文庫たち。『アルケミスト』『僕のエア』『この人を見よ』『神曲』『小遊星物語』『日本語必笑講座』『ロリータ』『ねじまき鳥クロニクル』『プレーンソング』『オロロ畑でつかまえて』『僕の妻はエイリアン』『やし酒飲み』などなど。

ああ、このままだと、部屋が本に飲まれる……。

わたしはそう思い、ふたたび奮起しました。ここでkindleに愛想をつかしてしまったら、わたしはこれまでと同じように本を買い、部屋をこいつらに占拠されてしまう。そんな危機感を抱いて、気持ちもあらたにkindleとiMacに向き合いました。

さて、そうなりますと、まずは基本に立ち返るべし。ということで、Amazonの公式kindleサイトに飛びました。で、流し読みしかしてなかった説明文を読む、読む、読む……。そうして目に飛び込んで来たのは「PCがなくてもご利用になれます」の一文。お、おい、嘘だろっ!

さっきまでの四苦八苦は何だったのかと、脱力感に襲われました。が、同時に、PCがなくても書籍がダウンロードできる……そんなことが可能なのか、という疑問も湧いてきます。いったい、これはいかなることか……。

それからまた調べたのですが、どうやら世の中には無線LANスポットなる場所がある模様。いえいえ、パワースポットではありません。Wi-Fi接続が無料でできるという、そういう場所です。知らぬ間に、セブンイレブンですとかスターバックのような店舗が、神的な力により、Wi-Fi接続できるようになっておるということです。

というわけで、kindleを持って近所のセブンへ。

この時点でまたうんざりしてきてます。だって、わたしとしては、部屋にいながらにして本を買いまくれる、と思ったからkindleを買ったのです。それが、外へ出なきゃいけないんじゃ、kindleの魅力半減です。そりゃ、セブンは歩いて5分ですから、大型書店へ行くよりは近い。けども、ねぇ……。

で、セブンに入り、お菓子の棚の前に陣取って、およそ20分、また四苦八苦をして、んで、ようやく最初の一冊、小川洋子『博士の愛した数式』をダウンロードできました。いやもう、本のチョイスなど適当です。とりあえず、オススメっぽいとこから、見たことあるタイトルのものを選んだだけです。ああ、長かった。あと、kindle、文字入力しづらい……。

ということで、いろいろありましたが、何とかkindleで本を読める状態になりました。いや、IT関係がまだこんなに難しいとは、正直意外でした。この、デジタル機器がどんどんアナログに近づいているご時世、もうちょっと楽に使い始められると思っていました。Amazonもappleもまだまだですね。いえ、わたしが機械音痴なだけなんですけど。

さて、セブンから戻って、そういえば郵便受けのチェックをしておらんな、と気づき、なかを調べたらAmazonマーケットプレイスで買った本が届いておりました。部屋にもどり、封筒をやぶると、出て来たのは斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら』。装丁はとってもきれいで、もうわくわくしてきてしまいます。なにより、封筒をやぶってすぐ読み始められるのがいい。何という便利さ! すっかり、わたしはそのヤンキー論を読みふけるのでした。

やっぱり、paperwhiteよりpaperです。

2013年8月18日日曜日

小説すばる新人賞 一次通過

良いニュースと悪いニュースがある。どちらを先に聞きたい?

と言っても「どっちも興味ない」とかえされそうですので勝手に言います。

悪いニュースは、前々から書いていた某国家機関の採用試験、それに落ちたということです。すでに複数不合格をつきつけられていたのですが、きのう確認したのは第一志望であっただけに、不合格となると、いやはや絶望的であります。

良いニュースは、集英社がやっている小説すばる新人賞という公募の賞の、一次選考を通過したことです。本屋で九月号を手にし、最後の方のリストを見て自分の名前があったとき、いやはや感動いたしました。

さて、この先どうなるのかと言いますと、もちろん二次、三次と選考は続いてゆきます。というか、たぶんもう終わっているでしょう。ネット上の断片的な情報をあさってみますと、最終候補に残ったものには、すでに電話連絡が行っているとかいないとか。わたしには、目下のところ、電話はございません。たぶん回線の途中に岩でも詰まっているのでしょう。

ともあれ、1435編中の100編ほどに選んでもらい、とても嬉しい。諸々の国家機関に落とされたあとだけに、自分の名前がリストにのるという喜びはひとしおです。ほんの少しのことでも、励みになるものです。

2013年8月16日金曜日

入会一分、退会不可能

怒っています。わたしはいま、怒っています。激おこプンプン丸の手にした釘バットを奪い取って逆に袋だたきにしてやりたいくらい怒っています。

何に怒っているのか。

各種会員の、なりやすさと、抜けにくさに、です。

ええもう、あいつらは非常に狡猾なのです。おトク情報という餌を大量にばらまき、わたしのような獲物をおびき寄せ、あっという間に会員にしてしまうのです。それはもう、実に見事なものです。こっちはもう「無料」という文字に目を奪われていますから、実に気軽に登録してしまうのです。

で、忘れた頃に、銀行口座から、見知らぬ料金が引き落とされているのです。ええ、わたしはあの某有名通販サイトのことを言っているのですよ。通販サイトAで、三ヶ月無料キャンペーンをやっていたからプレミア会員になり、気づいたときには有料に移行しており、年会費をきっちり取られていたのです。

普通に考えれば、コモン・センスにうったえるならば、有料になる際、メールのひとつも送ってくれると思うではありませんか。あれほどいらないメールを送ってくるAmazonですよ。なのに、そんな大事なことは教えてくれないのです。

また、あの有名な紳士服量販店もそうです。愛想のいい店員に「無料ですから!」と言われ、そのままカードを作らされ、あとで気づいてみれば、パンフレットに小さな文字で「二年目以降は有料」などと書いてあるのです、おトク情報の五分の一くらいのフォントサイズで。ぜんぜん紳士的じゃないぞ、青山。

さらには、つい先程のこと。テレビCMでツタヤTVが宣伝されていたので、こりゃよさそうだと思い、さっそく登録しました。宣伝通り、一分で完了しました。が、視聴に必要なアプリをダウンロードし、解凍しようとしたら、Mac OSが「できない」と抜かすのです。

「できないとは何事だ! きさま、それでもジョブスの生み出した製品か!」
「できねぇもんはできねぇんでゲスよ。そういうのはWindowsの仕事ですぜ」
「口答えするな! さっさと解凍して動画を再生しろ! .exeの拡張子がそんなに怖いのか、小心者めが!」
「youtubeとniconicoならいけまっせ」
「そんなことはとうに分かっている。いま問題なのはtsutaya-tvだ馬鹿者!」

と、そんな罵詈雑言の応酬をしても、問題は解決せず、結局、だめだったのです。

で、さっそくツタヤTVを退会しようとしたのに、こんどはそのやり方がわからない。ツタヤのページは「解約したいならホームのマイページからやりんしゃい」と言いますが、そのホームという場所が見つからない。結局、いまだに解約できず、です。どうも、あのアプリを開かないと、退会すらできないくさいのです。

「おい、わかったか! いいからこのファイルを開け!」
「無理でゲス」
「きさま、これだけiPodやiPad、iPhoneが普及しているというのに、iMacがマイナーにとどまっているというのはどういうわけなんだ! 初代iMacから愛用しているわたしをコケにするつもりか!」
「そ、そんなつもりはねぇんでゲス。けんど、あっしはOSですから、ツタヤさんがあっしに合わせてくれねぇと開けねぇんでゲスよ」
「ぐぐ……くそっ!」

というわけで、愛用のiMacとつい喧嘩までしてしまった次第なのですが、ほんとうに、入りやすく抜けにくい仕組みはやめていただきたい。入会はページど真ん中のテカテカしたでっかいリンクからできるのに、退会はページのいっちばん隅っこの目立たないところから二回も三回もリンクを踏まないと行けないというのはやめて欲しい。

そんな、情弱からのお願いでした。

カマキリVSセミ

お盆に帰省したおり、実家の畑の一隅にて、ひとつの闘いが繰り広げられておりました。

それがこちら。

地上一メートルほどの柿の木の枝で、カマキリがセミを捕まえておりました。

このとき、セミはまだ元気で、激しく羽ばたき、なんとかカマキリの魔の手から逃れようと必死でした。その動きはかなり活発で、蟷螂の斧ぐらい振り切ってしまいそうにも見えたのですが、しかし、そうは問屋がおろしてくれません。接着剤でくっ付いたように離れないのです。

それにしても、カマキリがセミを捕まえるなんて、なかなか意外なことです。昆虫については詳しくありませんが、カマキリ程度の大きさだと、セミはでか過ぎて、獲物の範疇から外れると思ったのです。なのに、この果敢なトライ。すごいものです。

さて、この闘いはだいぶもつれておりましたので、いったん奥内に戻り、アイスなどを食べて涼んだあと、もう一度あの現場に戻ってみると……


食っとる! むしゃむしゃ食っとる!

カマキリ対セミの闘いは、カマキリに軍配があがりました。しかも、すでにセミは、かわいそうなことに、三分の一ほど食われてます。頭の部分は完全に食われています。わたしが見ているあいだも、カマキリは実においしそうにむしゃむしゃ食う。よほど空腹だったのでしょう。ちなみに、断面の部分は食べかけのメンチカツみたいになってたので、修正を入れました。

しかし、セミみたいな大物を食うとは、さすがカマキリです。全生物の大きさを同じサイズにしたら、生物界最強はカマキリだ。バキにそう言わしめただけのことはありますね。

けど、気になるのは、「食いきれるのか?」という問題です。だって、体積からいったら、たぶんカマキリとセミは同程度、下手すればセミの方が上ですから。うまい部分だけ食って、他の部分は捨てるのでしょうか? あるいはアリさんにお裾分け?



ぜんぶ食いよった!

もう一度、部屋の中で涼んだあと、また様子を見に行ったのですが、そのとき、カマキリの手には、セミのおしりの先しか残っておりませんでした。どうやら、すべて食った模様です。すごい、すごい食欲です。ごらんください、このパンパンのお腹を。ここに、セミ一匹がおさめられているのです。

セミのご冥福をお祈りします。

2013年8月3日土曜日

小谷野敦がおもしろいよ

小谷野敦というひとをご存知でしょうか。コヤノ・トン、またはコヤノ・アツシと読みます。このひとがまあ、おもしろいのなんの。

おそらく岡田斗司夫以上にマイナーで、知らないひとも多いと思うのですが、実に個性的でおもしろい文章を書くひとです。

本業は比較文学の研究者。主に日本の近現代の文学作品を研究しているひとのようです。が、それのみならず、非モテの立場から恋愛について語ったり、各種文学賞や特撮モノについて論じたり、あと、小説も書いてしまうというかなりマルチな物書きでもあります。

何がおもしろいかと言いますと、陰に陽に、文章に私怨が渦巻いているというところ。小谷野さんはもてないとか、東京大学の専任講師になれないとか、友だちが少ないとか、文学賞がとれないとか、そういうさまざまなコンプレックスを持っており、それに基づいて、いろんなひとを批判・罵倒するのです。

たとえば小谷野さんはカント研究者の中島義道が大きらいです。中島は、変人で世渡り下手のふりをした世渡り上手、だと評するのです。あるいは、宮台真司のこともきらいみたいですし、森見登美彦も、なにがおもしろいのかわからない、と言います。言い切ります。ほんとに容赦がない。

こういう、コンプレックスをあらわにしたり他人に毒づいたりするひとというのは、往々にしてキャラでやってたりするものですが、小谷野さんはおそらくちがって、まじっぽいんです。というか、まじです。ほんとに、心からもてないのを気に病んでいるし、東大の教授になれないことが悔しいのです。

それから、文章の書き方が独特。普通の知識人なら書かなかったり曖昧にぼかしたりするところを、ズバッと言い切ります。「いじめられっ子は、どうせ自殺するならいじめっ子を殺してからにしろ」みたいなことを、書いちゃいます。また、自分の興味あること、詳しいことをダーッとマシンガントークよろしく書き連ねる、というのもよくある。正直、明治から昭和初期のマイナーな文学者とか作品を出されてもチンプンカンプンですが、んなもんおかまいなし。

そういうひとですから、悪くいえば性格がわるいし、独りよがりだし、わかりにくいんですが、けれども、おもしろいのです。うまくまとまってる当たり障りのない本より、好き放題に、脱線しまくる小谷野さんの文章は、なかなか他ではお目にかかれないものです。

以下、読んだ本について。

・『文学研究という不幸』(ベスト新書、2010)
タイトル通り、日本の文学系研究について、否定的に考察した本。内容のほとんどは学者たちの学歴や受賞歴、活動についてだった気がします。だいぶ前に読んだのでうろ覚えですが。けど、おもしろかったのはたしか。文系院生などはかなりおもしろく読めるでしょう。

・『「昔はワルだった」と自慢するバカ』(ベスト新書、2011)
内容はタイトルとほぼ関係ありません。序盤は古今東西の文学作品におけるワル、または元ワルの扱いについて。後半は俗物とはどういう人間かという話。全然まとまりのない内容です。けど、それだけに小谷野節がうなっている。とりわけ中島義道批判にはかなりの紙幅が割かれており、読み応えがあります。小谷野さんは、中島がウィーン留学中に同時に七人の女性から求婚されたことに実に嫉妬し怒りを覚えているようです。

・『友達がいないということ』(ちくまプリマー新書、2011)
序盤からずっと、過去の文学作品における友情という話が続出します。普通、このタイトルだったら孤独な中高生に向けて書くと思うんですが、んなもん関係ねぇとばかりに、絶対中高生がついていけない話が続きます。「タイトルに惹かれて手に取った十代の子とか、これ読んでどう思うだろう?」と想像すると笑えてきます。びりびりに破くんじゃないか。ちなみに、帯に「ひとりでも生きていける」とありますが、ひとりで生きていく方法なんかほとんど書いてありません。

・『童貞放浪記』(2009、幻冬舎文庫)
ズバリなタイトルです。著者の二冊目の小説集。標題の作品が冒頭にあり、次が続編にあたる『黒髪の匂う女』、最後が『ミゼラブル・ハイスクール一九七八』です。私小説、ということなのですが、文章として上記のエッセイと差がなく、しかも脚色がほぼないみたいで、手記を読んでる感覚です。小説らしさがゼロに近い。内容は、標題の作品はタイトルから想像できる通りです。ただ、『ミゼラブル』は、どんな陰鬱な高校生活が綴られてるのかと思って読んでみれば、友達もいて、親との仲もよく、二年生からは優等生で、文学という好きなものもあって、という内容なので、「どこがミゼラブルやねん」と思わざるをえません。まあ、そこもまたおもしろいんですけど。


明日くらいには、小谷野作品のなかでおそらくもっとも売れた『もてない男』が届きます。これも楽しみに読んでみたいと思います。みなさまもぜひ、怨恨と不満に裏打ちされた、たしかなネガティブ文章を読んでみてはいかがでしょうか。

2013年8月2日金曜日

岡田斗司夫がおもしろいよ

岡田斗司夫というひとをご存知でしょうか。

わたしもあまり詳しくはないのですが、あのエヴァンゲリオンで有名なガイナックスという会社の社長をやってたことで有名な人です。ほかにも、アニメの脚本をやったり、クラウド・シティというSNSを運営したり、本(『いつまでもデブと思うなよ』など)を書いたりなどしているようです。

少しまえまで、わたしはこのひとのことをアニメ通としてしか認識しておらず、もっと前は伊集院光と同一人物だと思っていたのですが(痩せる前は外見が酷似していたのです)、YOUTUBEで岡田さんのおしゃべりを聞きましたところ、完全にハマりました。

なにしろ、頭がいい。めちゃくちゃ回転がはやい。わたしなどはゆっくりゆっくり考え、行ったり来たりして、ようやく思考を進めてゆくという人間なのですが、岡田さんはさながら弾丸のように一直線に進んでゆくという印象です。しかも、発言内容もかなり独特でおもしろいものばかり。

感銘を受けたのは、たとえば以下のようなもの。

・プライドを捨てるのは難しい。ならば、その高いプライドに見合う人間になろうよ。そのほうが楽だぜ。

・いい人をめざせ。表面的でもかまわないから。これからは金銭や正規雇用より、他人からの評価がものを言う時代になる。

・もてたいなら、女はかっこわるい男を狙え。男は老婆を狙え。

・美人は全員性格がわるい。

ほんとうはもっとあったのですが、いまざっと思い出せるものはこれくらいです。でも、世の中で一般的に言われている言説とはかなりちがう、独特なものだということはおわかりいただけるのではないでしょうか。とりわけ、現状の認識がとてもリアリスティックで、そこがすごい。

岡田さんのしゃべりは実に切れ味鋭くて、わたしなら半年くらい逡巡してしまうところを一秒でズバッと言ってくれます。娯楽としてほんとうに楽しい。みなさまにもぜひおすすめしたい。

2013年7月29日月曜日

『風立ちぬ』みてきた

宮崎駿監督のアニメ、風立ちぬをみてきました。二回も。なのでその感想を……。

以下、めっちゃネタバレします。

結論から言いますと、ものすごくおもしろかったです。わたしはどちらかと言うと、アニメではただ派手なシーンとかわくわくする物語とかがみたいタイプなのですが、でも、このアニメはそういう期待とは別のところでおもしろかったです。

まず主人公、堀越二郎の特異なキャラクターがおどろきです。

二郎は子どものころから「美しい飛行機をつくりたい」という一心で設計家の道を歩んでゆくのですが、かなり変わり者です。でも、わかりやすい変わり者ではなくて、なんかズレてる、という変わり者。ときどき登場する二郎の妹が「兄さまは薄情者です」と何度か言うんですが、ほんとに薄情者なのです。

菜穂子がサナトリウムで闘病してるあいだ、二郎は見舞いにもいかず会社で勉強会なんぞひらいてもりあがっていますし、心配してくれてる妹のことには無頓着、路上で親の帰りを待つ貧乏な子どもにお菓子をあげようとして拒否されるも、なぜ拒否されたのかわからず。しかも、いずれのケースでも罪悪感は持っていません。

そのくせ、女性への意識はめっぽう強い。全編を通して二郎は女性ばかりを見、女性にいいカッコをしようとします。席を譲ったり、地震のとき骨折の手当をして助けたり、お菓子あげようとしたり。しかも、女性が好きなのはたんに女性が「きれい」だから。二郎は菜穂子になんども「きれいだ」といいますし、あまつさえ、久々に会いに来た妹への第一声も「きれいになったね」です。この女たらしめ!

つまり、きれいなもの(飛行機と女性)への憧れをつよく持った変わり者が主人公堀越二郎なのです。

で、この変わり者二郎に恋をして結婚する菜穂子さんも、やっぱり変わってる。この二人の関係性、おもしろい。

たぶん、菜穂子さん自身も、きれいなものへの憧れをつよく持っていた人なのです。菜穂子さんが丘の上で油絵を描いてるシーンがあるのですが、そこで描いていた線は、まさに、二郎がずっと惹かれていたサバの骨の曲線でした。

けど、菜穂子さん自身は結核という病いのために、絵画で美を追求するという道を進めません。なので、おなじような夢を持っている二郎に、いわば自分の夢を託した、のだと思います。自分自身は美しいものをつくりだすことを諦め、自分を美しいと言ってくれる人に残りの儚い人生をささげたのです。

肺をわずらう菜穂子さんと、家でも仕事をする二郎が、部屋で手をとりあうシーンがあります。そのとき、二郎はたばこを吸いたくなり、一度は遠慮するのですが、菜穂子さんにうながされて吸います。これがとてもいい! きっと、菜穂子さんからすれば、「自分がそばにいるせいでめいわくをかけたくない。いつものペースで生活してっ」ということでしょうし、二郎からすると、その気持ちをくみとり、相手の健康を害することを承知の上であえて吸っている、ということだと思います。「相手のことを思いやって、あえて、たばこを近くで吸う」という、なかなか他ではお目にかかれないシチュエーションです。

さて、恋愛からはなれ、二郎の飛行機づくりに関してなのですが、戦争との関係でいろいろと考えさせられました。

二郎自身の夢は、あくまで美しい飛行機をつくることです。けど、社会的には、二郎は戦闘機をつくり、いわば戦争に荷担しているのです。なんとも悩ましい! 自分が同じ立場なら、「こんな人殺しの道具をつくっていていいのか」と葛藤するかもしれません。

けれども、二郎にはそういう葛藤、苦悩があまり感じられない。というか、たぶんない。同僚の本庄から「おれたちは死の商人ではない。いい飛行機をつくりたいだけなんだ」というようなことを言われたとき、「うん。そうだね」とそっけない答えをするだけ。こういうところで、つい笑っちゃうと同時に、かなりひっかかりました。

一貫して、二郎は淡々といい飛行機をつくろうとします。けど、それによって日本がよりひどい戦火にのまれることに、あまり悩んでない。そして、映画としても、「生きねば」がキャッチコピーですから、二郎の生き方を、どちらかと言えば、肯定している。ここですごく考えさせられてしまいました。

いえ、反発しているわけではないんですが、単純に「逆境にあっても夢を追い続けるのはすばらしい! 夢を忘れるな!」という気分にはなれません。風立ちぬの中では、夢を、それも、きれいな飛行機をつくりたいという素朴な夢を追うことの負の面がでかすぎる。結論としては、「生きねば」ですから、「そういうつらいこともあるけど、それでも、生きねば」だと思うんですが、「それでも」の前の譲歩認容の部分がでかすぎて、スムーズにその先へ行けません。わたしは。

わるいふうに解釈しようと思えば、二郎はいくらでも悪人に見えてきます。普通の日本人が食うや食わずの生活をしているころ、自分は軽井沢の避暑地でいいものを食い、ピアノの弾き語りを聞き、女の子と紙飛行機で遊んでいるのですし、膨大な資金を使って夢を追求しているのですから。

というふうに、いろいろ考えたすえ、わたしの場合は二郎を完全に肯定はできないし、この映画のメッセージもしっかり理解できたわけではないのですが、でも、こうやっていろいろ考えさせられたという時点で、この映画が好きになりました。いい映画だと思いました。

以下は、雑記といくつかの疑問。

軽井沢で出会ったあのドイツ人のスパイみたいな人が食ってた草は何なのでしょう? でかい鉢に大量に入ってた草をかれはもしゃもしゃ食ってましたが、なぞです。野菜のようではなく、完全に草でしたよね? かれのセリフのなかで「○○もおいしいですし」みたいのがあったので、その○○が草の名前かもしれませんが、滑舌がわるく聞き取れませんでした。(追記:ぐぐったら、どうもあの草はクレソンという野菜らしいです)

この映画では飛行機の音が人間の声で表現されています。で、そのために、飛行機の音がすっごい不気味なのです。うめき声や悲鳴に聞こえるところも多数。はたして、あの不気味さというのは意図してのものなのかどうか。結果的に不気味になってしまっただけなのか。そこがよくわかりませんでした。

作品のなかで、何度かワインという言葉が出てきます。夢のなかで、カプローニさんというイタリア人の飛行機設計士が「いいワインがあるんだが飲んで行かないか」と、二郎を誘うのです。でも、たしか、二郎が実際にワインを飲むシーンはありません。軽井沢でも、ドイツ人スパイと菜穂子の父はワインを飲んでますが、二郎はビールなのです。はたして、ワインは何かのメタファーなのか。二郎はワインを飲まなかった、というのがどういうことなのか。気になります。(気にしすぎ?)


最後に、auの「風立ちぬへの手紙」などに掲載されてる感想について。

あそこには、主に、「戦争という逆境に負けず、夢を追い続けた二郎の姿に元気をもらいました!」的な感想が多いのですが、それはちがうと思うのです。二郎は、病気と闘うとか、周囲の無理解に打ち克つとか、そういうレベルの逆境と闘ったのではないのです。-100を努力によって100にするんじゃなくて、-100と100が同時に存在し、絶対に打ち消し合わないような、困った状況にあると思うです。

戦争が逆境……でもあるんですが、むしろ、飛行機をつくりたい二郎にとっては絶好のチャンスでもあります。貧乏な国が飛行機をもちたがってくれるわけですから。だからこそ、二郎は夢を追えたのです。「つらいこともある。でも夢を追い続けよう」という単純な図式ではまったくかたづかない、えらくねじれた構造です。とてもとても、残酷で、グロテスクで、エゴイスティックなものです。

やっぱり結論は出ませんけど、でも、これはいい映画です。もう一回みにいっちゃおうかな。

2013年6月27日木曜日

真っ白な男

おい、酒だ。酒持ってこい。……聞こえねぇのか、酒だよ! もうこっちの瓶はカラなんだ。ぐずぐずすんな。え、なに? 飲み過ぎだと? やめろだと? 誰に向かって言ってんだこのばい菌オンナがっ! おまえは言われた通り動いてりゃいいんだよ! さっさと持ってこいオラァ!

ちくしょう。くそっ。おれだってなぁ、飲みたくて飲んでんじゃねぇんだ。あんときのことがよぉ、思い出すだけでこわくってよぉ、飲んでねぇと、こわくて死にそうな気持ちになるんだよ。素面じゃ、とても、一時間だっていられねぇ。ああ、またあの野郎の面がフラッシュバックしてきやがった。あのおぞましい、角の生えた、全身真っ黒の、汚らしい面がよ……。

別に、おれは、自分の行動を後悔しちゃいねぇよ。正しいことをしたと、いまだって思ってるんだ。正義のために戦った、なんていうと偉そうだが、しかし、そのつもりだったさ。いや、そうさ。あんときだって、おれはあの少年を守ろうとした。そのために、あのばい菌野郎に立ち向かったんだ。そこはまちがっちゃいねぇ。いや、誰にも、まちがってるなんて言わせるもんかい!

しかし、まさかあいつがあんな強いマシーンを持ってるなんて思わなかったんだ。想定外だぜ。ありゃあ、この世界のものじゃねぇ。あんなのは、ハリウッド映画の領分だ。あんな、ぎらついた金属でできたモビルスーツみたいなもんを持ち出してくるとはな。どうしろってんだよ。

けど、ボロボロになりながらも、おれはがんばったよ。死力を尽くして。おまえも見てただろ……ん? おい、もう酒がねぇぞ。もう一本持ってこい。なに、もうないだ? んなもん、酒屋に行きゃいくらでもあんだろ! 金か? 金ならほら、このマントをやるから、質にでもヤフオクにでも出してこいっ! どうせおれはもう飛ばねぇんだからよ。

えっと……そうだ。おまえも見てた通り、おれはからだ中から血を流しながらも戦ったよ。パンクズみてぇになりながらな。そして、あのばい菌野郎のメカに踏んづけられて、ぺしゃんこになる直前、あいつに助けられた。そう、アンパンマンの奴にな。おれは一命を取り留めた。けど、もう、こころの方が、だめだった……。

なぁ、ドキン。こんなになっちまったおれを哀れだと思うかい? なに、思わねぇだと? 嘘をつくなっ! おまえが慕ってたのは、こんな男だったか? パトロールもしねぇで、あのばい菌野郎に立ち向かうこともなく、昼間っから飲んだくれてる、この口の汚ねぇアル中がよぉ、哀れじゃねぇといえんのかっ!

おまえも、無理すんな。こんなアル中につきあうこたぁねぇんだよ。またあのばい菌野郎のとこへ帰ったらどうだ? どうせ、おれはもうだめなんだ。顔は新しいのを焼いてもらえても、こころは焼き直せない。おれのこころはもう折れちまってるんだ。またあの、身の毛もよだつような強力なメカに立ち向かう? 絶対に無理だね。

おい、ドキン。酒はどうした? なにボーッとしてやがんだ、ばい菌オンナがっ! つべこべ言わねぇで、おとなしくおれの言うことにしたがえっ! おまえもむかし、さんざん言ってたじゃねぇか。目をハート形にしてよぉ。おれは……おれはなぁ……腐っても、カビても、食パンマン様だぞっ!

2013年6月11日火曜日

結婚記念日

今日は、わたしと妻との結婚記念日です。

このブログには書いていなかったかもしれませんが、実は、わたしは二年前に、学生結婚をしたのです。妻は当時、すでに売れっ子の女優で、映画やドラマの主演もこなしていました。もちろん、日本中に、いえ、世界中に彼女のファンがいて、かれらにとっては高嶺の花中の高嶺の花だったようですが、わたしは、そんな彼女からの熱烈なアプローチに根負けし、結婚したのでした。

「しかし、なぜさえない大学院生のおまえが?」

そうお思いの方もいるでしょう。ですが、わたしはすでにその頃、学業の傍らIT企業をおこし、実業家としてかなりの成功をおさめていたのです。当時マスコミは、わたしのことを「コンマ1秒で10億稼ぐ男」として、こぞって取りざたしたものでした。

そして、連日のようにわたしのマンションに押し掛けてはインタビューをもとめ、さらには念入りに経歴を調べあげて、高校時代に陸上競技で三つの日本記録を樹立したことや、大学からはじめた射撃でオリンピックに出場したこと、果ては学生時代に流した浮き名の数々にいたるまで、テレビや雑誌でばらされてしまったものです。

そんなわたしも、二年前に、もうだいぶ遊んだことだし、彼女のこともいいなと思ったので、結婚して身を固めたというわけです。彼女もわたしもふだんは忙しく、なかなか会えない日も多いのですが、彼女からの愛はあいかわらず感じていますし、もちろん、わたしも彼女のことを愛しており、結婚してよかったと思っています。

さて、そんな妻と、年に一度の結婚記念日ですから、目下、プライベートジェットにのってタヒチへ向かっているところです。日本にいると、わたしも妻もめだちすぎ、旅行どころではないのです。おや、妻がすてきなドレスに着替え、ワインを片手にやってきました。このへんで、今日の日記は終わらねばなりません。

へへ、へ、へへへ……。

2013年6月9日日曜日

自然に帰ろう

先週に続き、今週も採用試験でございました。

まずはマークシートでセンター試験の亜種のようなものを解く。いやはや、高校生の頃の自分であれば「こんなもので人間の能力の何がはかれるっていうんだ!」と憤っていたでしょうが、もうわたしは完全に試験というものに慣れ……という話はもうしましたね。

きょうは試験会場が、わたしの通う大学でした。といっても、いつもいってるキャンパスではなく、電車にのって降りたら急な坂をのぼって結局自宅から一時間ほどもかかる遠いキャンパスです。一回生、二回生の若かりし日に通っていたキャンパスです。

久々にそのあたりにいってみますと、やはりいなかでございますから、緑が多い。駅を降りて歩き出すとすぐに田んぼです。坂をのぼりはじめると、左手にはうっそうとした林、右手には雑草や花がそよ風にゆれておる。そんな場所です。

わたしは普段、京都市の中心部におりますから、こんな光景はなかなか見ることがありません。ですので、たまにこういういなかの風景を見ると、なんだかこころが落ち着くのです。自然が、荒んだこころを癒してくれる。

と、なんだか都会人らしいことを言いましたが、実のところ、わたしはいなか出身なのです。しかも、故郷は半端な田舎ではございません。元無医村、いまでもコンビニは一件もなし、小中学校はすでに廃校、そんなところです。つまり、わたしは、いまでこそこうしてパソコンなどという文明の利器を使っていますが、本来、野蛮人なのです。ああ、沢ガニを砂に埋めて遊んでた頃が懐かしい。

そんな野蛮人のわたしは、久しぶりに自然豊かな風景を見て思いました。もう、そろそろ自然へかえろうか、と。もともと、わたしには、都会は向いていなかったのかもしれません。大都会はこわいからと、埼玉出身であるにもかかわらず、東京を避け、京都にやってきたのでしたが、それでも、京都でも、わたしには賑やかすぎるのです。

先日遊びに来た母が申しておりました。「近所の空き家にイノシシの夫婦が住み着いた」と。わたしの故郷は、もう、いよいよ人間の居場所まで動物にのっとられ、自然にかえろうとしております。わたしももう、あの故郷の村とともに、人間世界を離脱し、自然の世界に戻ろうかと、そんなことを夢想しているきょうこの頃。

2013年6月8日土曜日

盗みの連鎖

むかしある村で、こんな事件があった。

ある日、鮮度を売りにしているある寿司屋の魚を、一匹の猫がくわえて持ち去ってしまった。水槽の中のまだ生きたままのやつを、狡猾な泥棒猫が盗んでしまったのだ。店の大将は包丁片手に泥棒猫を追いかけたが、残念ながら路地に逃げ込まれ、捕まえることができなかった。

猫は一安心してゆっくり路地裏の塀の上を歩き、まだぴちぴちと動いている魚をくわえながら、どこか落ち着いて食事に専念できるところはないかときょろきょろしていた。しかし次の瞬間、泥棒猫はある少女に捕まってしまった。少女は猫泥棒だったのだ。

猫泥棒に捕まった泥棒猫は、もがいたけれども逃げられなかった。少女はいやがる猫を小脇にかかえて、家まで持って帰ろうとした。やっと猫が飼えると思うと、わくわくしてスキップまでしてしまった。

けれども途中で、猫泥棒の少女はある男に誘拐されてしまった。男は身代金目当てで、ひとりで歩く無防備な少女をねらったのだ。男は、魚をくわえた泥棒猫を小脇にかかえた猫泥棒の少女を自宅へと連れ去った。

しかし、結局この誘拐計画は失敗してしまい、男はお縄になった。もちろん、男は法廷で裁かれ、その動機や方法など、あらゆることが取り調べられた。そして、その審理が進むなかで、事件の全貌が明らかになると、裁判長はこういった。

「この事件は、まるで盗みの連鎖反抗じゃないか。いかん。これはいかん」

そうして、この発言以後、被告の男にはボディーガードがつくことになった。連鎖がまだ終わっていないとしたら、この男がまた誰かから盗まれる(誘拐される)おそれがあると判断されたからだ。

一方、最初に泥棒猫に盗まれた魚には、よからぬ嫌疑がかけられた。魚は小型の水槽に入れられた上で法廷への出頭を命じられ、いまや、証言台の上で裁判長と向き合っていた。

「魚くん。きみはいったい、何を盗んだんだ? 正直に言いたまえ」

裁判長にこう詰問された魚は、たいそうギョッとしたという。

ええ、終わりです。

2013年6月7日金曜日

海外では

「海外では」ということばがきらいだ。大きらいだ。

他にも、同系統のものとして「外国では」があります。わたしは、このことばを吐くひとの胸ぐらをつかんで、その鼻面にこんな叫びを浴びせてやりたい。「海外って、どこの国やねん!」と。

たとえば、ホンマでっか!?TVにときたま出演しているある女性評論家が、しばしばこのような言い方をしております。「海外のセレブのあいだで、○○が流行しているんです」と。しかし、それははたして、海外すべてを指してのことなのでしょうか。ご紹介のそれは、コロンビアやラオスやタンザニアでも、ほんとうに流行っているのですか。

きっと、アメリカとか、ほんの一部の先進国のことを言っているだけなのです。なのに、それを「海外」とか「外国」と、日本以外すべてを含むことばで表現していることが非常に腹立たしいのです。

別に、その評論家に限りません。世の中では、「日本人は○○だが、外国にいくと○○」というふうに、なぜだか、世界を日本と日本以外というたった二種類に分けて語るひとが多い。「外国人は日本人とちがって自己主張をしっかりする」というが、それはほんとうなのですか。ほんとうにリトアニア人もナイジェリア人もカザフスタン人も、しっかり自己主張をできるのですか。

さらにはなはだしきは「世界」です。「世界へ飛び出せ」と、よくひとは言います。しかし、日本も世界の一部なのではないのですか。それとも、日本は世界のなかに属していないのでしょうか。ここは世界の外、異界なのでしょうか。しかも、世界へ、といったって、それはどこのことを指してのことなのでしょう。カナダですか、キューバですか、ガーナですか、佐渡島ですか。

思うに、日本人は日本という国を世界のなかで特殊なものと考え過ぎなのです。外国といったって、千差万別。日本と似た国もあれば、まったくちがう国もあるはずです。二百ほどもある外国をすべていっしょくたに考えるなど、それこそ、もっとも国際感覚の欠落した思考法ではないでしょうか。

日本人ははやく、そうした未熟な発想から脱皮し、海外の人々と対等に話せるようになって、広い世界へと出てゆくべきでしょう。

2013年6月5日水曜日

空をいじめるな

その丘の上にある空は、なぜだか橙色をしておりました。

私がいつ、どうやって、なぜ、その奇妙な野原に行ってしまったのか、それはまったく覚えていません。自分の足で来たのか、誰かに運ばれてきたのか、それもわかりません。とにかく、気づいたら私は芝生で覆われたそのなだらかな丘に寝そべっており、パチリと目を開くとそこに、橙色の空が広がっていたのです。

しかし、その空は、夕焼けのために橙に染まっているのではありませんでした。だるい上体を起こし、まだぼんやりした頭で周囲をたしかめてみると、太陽がなかったのです。その上、空一面がすべて、一様な橙色に染まっていたのです。もしこれが夕焼けならば、空の色は赤から群青へとグラデーションしているはずですが、そうではなかったのです。

まったくどうなってしまったのだろうと困惑しておりますと、そこへ、濃い紫色をしたひとが歩いてきました。私を心配してくれているのと同時に、警戒しているようでもありました。

「おい、あんた、大丈夫かい?」
「はい。まあ……」

ここがどこかもわかないし、自分の身に何が起こったかもわからないので、ほんとは大丈夫とは言い難いのですが、とりあえず怪我をしているわけでもないので、そう答えました。

「あの、ここはどこなんですか?」と私は訊きました。
「いやぁ、どこってほどの場所じゃないよ」
「でも、教えて欲しいんです。何県ですか? 何市ですか? それだけでも」
「そんなもん、知ったこっちゃないね。あんたこそ何もんだい? そんな布を全身に巻き付けたりして」

どうも、この濃い紫色のひとは話が通じないひとのようです。それはでも、そもそも全身すべて紫で、服も着ておらず、どこに間接があるのかもわからないような姿ですから、当たり前といえば当たり前です。

「ところで、この空なんですが……」
「おっと! 空だって! 空がどうしたって?」

なぜかかれは、急に興奮しだしてすごい笑顔になりました。

「この空は、どうしてすべて橙色なんですか? 太陽はもう沈んだんですか?」
「へっ! 太陽なんざもう七年も前に撃ち落として、ばらばらにして売っぱらっちまったよ。この橙色はおれが染めたのさ」
「まさか!」
「ほんとうだとも!」
「じゃあ、ずっとこの空は橙色なんですか? 青空は?」
「いやいや。たまには変えてるさ。興味があるってんならお見せしよう。ついて来な」

こうして、私はこの紫色のひとのあとについて、丘を歩いてゆきました。かれはいったんその小高い丘を下りきると、隣にあった三倍ほどの丘をのぼってゆきました。その頂上に到着しますと、釣り竿のような道具がひとつと、それに机があり、机の上には液体のような中身が入った色とりどりの注射器が置いてありました。

「見てな。これで空の色を変えてやるんだよ」
「いったい、どうやって?」

私はすっかり混乱してしまいました。けど、そんな私のことなんて気にも留めず、彼は慣れた手つきで釣り竿のような道具の先端に青いものが入った注射器をセットし、「これには濃縮された青が詰まってんだ」と手もとを見ながら得意げに言い、それからしゅるしゅるとその道具を伸ばし始めました。

「もうちょっとだ。見てろよ」

先端に注射器のついたその棒は釣り竿の要領でどんどん真上に伸ばされていき、とうとうそのてっぺんが見えなくなってしまいました。そしてすべて伸ばし切ると、上の方で「痛っ!」という声がかすかに聞こえました。

「よし、刺さった。じゃ、いくぜ」

紫色のひとは棒の手もとにあるスイッチのようなものをぐいっと強く押しました。すると、「ううっ」と上の方でうめき声があがり、やがて、針が刺さったのであろう場所を中心として、同心円状に、青色が広がってゆきました。青はみるみる橙を浸食していき、広い空がものの二十秒ほどで真っ青になってしまいました。

「すごいもんだろ? どんな色にでもできるんだ」

紫色のひとはにやりと笑い、ふたたび棒をしまいながら言いました。

それから、「もっと見せてやろう」とかれは言い、こんどは緑色の入った注射器をセットして同じようにしました。また、上の方で「痛っ!」とか「ううっ」という声がして、空が緑色に染まりました。緑色の空なんて生まれてはじめて見ましたので、私はなにか、身の毛のよだつ思いがしました。

「よし、次は何色にしようかな」
「いえ、もうけっこうです」

私はお断りしました。これ以上、空の色をぽんぽん変えられたら、頭が変になりそうだったからです。それに、信じ難いことですが、どうやらかれは空に注射をむりやり打ち込んで色を変えているみたいで、空がかわいそうになったのです。

「遠慮するこたぁない。それに、緑のままじゃきもちわるいだろ」

そういうと、かれは次に白をセットして、また同じようにしました。するとこんどは、空が「もういやだっ!」と叫び、空全体がぐらぐら波打ったかと思うと、急に雨が降って来たのです。経験したことのないような強い雨が、突如として私たちに降り注ぎました。

「こ、こいつは弱った!」

紫色のひとは頭を抑えながら大声で言いました。けれども、調子づいているからこういうことになるのです、きっと。私は、できる限りはやく、この紫色のひとのもとを去ろうと思いました。

が、雨がそれを許してくれませんでした。その雨は、さらさらとした普通の雨ではなくて、非常にねばっこい、どろどろとした雨だったのです。まるで、アラビックヤマトを浴びている気分でした。全身はびしょびしょ……ではなく、どろどろになってしまい、歩こうとしても、地面にたまったその液体のせいで足を上げられません。ここは丘の上ですから、かなりの量が下へ流れてくれているはずなのに、それでも、だめなのです。

やがて、私はその糊のような液体に口も鼻も塞がれて、気を失ってしまいました。

2013年6月4日火曜日

安部公房『砂の女』

安部公房『砂の女』を読みました。

これまでの人生で、わたしはたびたび安部公房を友人らにすすめられました。おすすめされた回数で言えば、村上春樹の方が多いのですが、しかし、安部公房に関しては「おまえはたぶん好きだろう」というトーンですすめられたので、わたしとしても、こいつは何かあるな、と思っておりました。

が、結局かれの作品を手に取ることなく、この年になり、そうして、ようやく重い腰を上げて、きのう、書店で『砂の女』を買ったのです。で、読んでみますと、もうほんと大好物。こういうの、大好き。理由もなく躊躇していた過去の自分に砂をかけてやりたい。

わたしはこれまで、鳥居みゆきが好きとか、ポピーザパフォーマーが好きとか、いろいろ周囲に言ってきました。あと、書く日記なども、そういうたぐいの、キ印なものが多い。そんなわたしを見て、なぜかれらが安部公房をすすめてきたのか、わかった気がいたします。かれの作品は、まあ、そういう不条理なタイプのものなのです。

おそらくこういうタイプの作品のひとつの源流は、L.キャロル『不思議の国のアリス』でありましょう。けど、ある種の古典落語や、先日ご紹介したチュツオーラの作品にも、そういうエッセンスは多分にある。きっと、不条理なユーモアというのは、何か、人間というものの根源的・普遍的な部分に源流を持つのでしょう。

ちなみに、『砂の女』はほんとに砂っぽい。砂丘にあいた穴の底にあるぼろい家が主な舞台で、そこでもとから住んでた女と罠にかけられて監禁された男が右往左往するのですが、もう、しゅうし砂砂砂です。家の中にいても部屋は砂だらけだし、口の中にも砂が入ってくるし、もう読んでるだけで口の中に砂が湧き出て、鼻から砂が出てきそう。とにかく、砂なのです。砂、砂、砂。ああ、もはや砂という語がゲシュタルト崩壊を起こしておる。

さて、この本ははやばやと読了してしまいましたので、今日、大学の購買でさっそく『壁』を買ってきて、もう読み始めました。これもなかなか、不条理でおもしろい。そして、やはり文章がうまい。もはや完全に安部公房フリークとなってしまっています。

不条理、理不尽、奇妙キテレツな話が好きという方は、ぜひお試しあれ。

2013年6月3日月曜日

結婚はまぼろしです

結婚できないひとが増えていると聞きます。

統計上も、かつてと比べ、急激に若い世代の未婚率が上昇しているようです。しかし、結婚したいというひとは男女ともに多いようで、メディアでは頻繁に婚活だの集団お見合いだののようすが報道されています。なりふりかまわず、優良物件を血眼でさがすその姿、いかがなものでしょうか。

そもそも、結婚というものにそこまでの価値があるのか。少し世の中を見渡せば、容易にあるとは言えないでしょう。結婚しても、夫婦喧嘩がたえなかったり、相手のアラばかりが見えてきたり、姑にいびられたり、子どもがひきこもりになったり、世界から戦争がなくならなかったり、つらいことばかりではありませんか。

思うに、世の中のひとびとは、結婚しなきゃという空気に飲まれている。恋人が欲しいというのもそうです。世の中で、みなが恋人を欲しがるから、ぼくもわたしもと、流されているだけなのです。ジャック・ラカンいわく、「欲望とは、他人の欲望である」。他人が結婚や恋愛を求めるから、のせられているだけなのです。いわば、共同幻想なのですそんなものは。

たとえば、あすから急に将棋ブームが巻き起こったとします。世の中は将棋の話題一色です。学校でも職場でも、休み時間には将棋の話ばかり。テレビをつけても、朝から晩まで将棋番組です。報道ステーションのキャスターは、古館さんから羽生さんに交代。しかも、ニュースはすべて将棋関係です。AKB48のニューシングルは「歩と香車ゲット」です。将棋の知識やつよさこそが、人間としてもっとも重要なものであるという風潮になるとします。そしたら、きっとあなたも将棋のルールを覚えたり、上達をめざすようになるはずです。少々値の張る将棋盤を買うかもしれません。

結婚も同じこと。そういう風潮だから、したいという人が多いだけなのです。

ほんとうの人生は、そんな幻想の先にはなく、ただ、日々の生活の中にしかありません。これは今だけ。ただの場つなぎ。ちょっとしたステップ。そう思って、きょうしていたことが、人生そのものなのです。よりよい明日など、永遠にこないのです。

と思えば、しあわせな結婚を夢みてかけずり回るひとたちが、実に浅ましく見えてくるではありませんか。他方、オタクと呼ばれて蔑まれている男性たちが、むしろ立派に思われてくる。かれらは、何かのためにアニメをみたりフィギュアを買っているわけではない。ただ、いま、そのときどきに楽しむというだけなのです。オタクはいまを生きている。すばらしいではありませんか。

なんだか、少々偉そうな口調になってしまいましたが、ただわたしは、おぼろげな未来を夢みて苦心惨憺するよりも、いま手もとにあるしあわせを大事にした方がいいのではないかと、そう思ったのです。所詮、結婚など夢幻のたぐいです。恋人だなんて、そんなもの、この世にはおりません。街で見かけるあれは、みな幻覚なのですよ。

そう、みな実体のない、まぼろし、夢、幽霊、蜃気楼、副作用、ふふ……ふへへへ……。

コミュ障

コミュ障、ということばがございますな。

わざわざ書くまでもないことですが、コミュニケーション障害の略語です。就職活動の激化にともなって、ひろく使われるようになったことばです。よく、自分はコミュ障だから、などと自虐的に使われるのも目にします。

けれども、このことばが本来持っている意味にかんがみると、いささか安易に使われ過ぎてはいないでしょうか。コミュニケーション障害というのは、本来、そんなに生易しいものではないはずです。なのに、せいぜい性格がやや暗いとか社交性に欠けるくらいのひとが、コミュ障だと自称している気がするのです。

コミュニケーションに障害があるというのなら、せめてこのくらいでなきゃいけません。

「弊社を志望した理由を教えてください」
「はい。わたくしがある日、川原を散歩しておりますと、一匹の沢ガニが近づいてきまして、こう言うんです。おまえはまっすぐに歩いているが、そのコツを教えてくれないか、と。その沢ガニは、どうしても横にしか歩けないから、まっすぐ歩けるわたしにレクチャーを求めて来たのです。そこでわたしは……」
「あの、すみません。途中でさえぎって申し訳ないですが、その話が志望理由につながるのですか?」
「はい。そこでわたしは、ポケットに入っていた単三電池入りのおにぎりを取り出し、そのカニの手前三十センチのところに放りまして……」
「すみません。お話の中身がよくわからないのですが」
「単三電池です。アルカリの」
「それはあなたが持っていたおにぎりの話ですよね?」
「いえ。これは、わたしのひ孫から聞いた伝説です」
「……少し混乱してきたので、別の質問をしましょう。あなたの長所と短所を一つずつ教えてください」
「長所は髪の毛が一本もないところ、短所は……」
「失礼。見たところ、黒々とした髪が生えていますが?」
「これは髪ではありません。苔です」
「苔?」
「はい。ひとが分泌する油を栄養として育つ、特殊な苔です。それを、頭髪がわりにのせているんです。塩分がつよく、水にひたすとぬめりけを持ちますので、味噌汁なんかに入れると美味ですし、最近ではピザの具としても……」
「もう結構です。おひきとりください」
「すみません。オヒキ鳥はいま持っていません」
「いや、オヒキ鳥をくれと言ってるのではないんです。そんな鳥聞いたこともないですし」
「オヒキ鳥は焦げ茶色のまるい胴体をした鳥で、足は小枝のように細く、その肉は塩漬けにしておきますとかなり日持ちがする上にジューシーで……」
「オヒキ鳥の説明はいりません。もう帰ってください」
「土に還れと、こうおっしゃるので?」
「家に、です」
「どの家に帰れというのですか? あなたの家に、ですか?」

これなら、コミュ障ですと言っていいでしょう。

小論文という存在

本日は、といってももう日付は変わっていますが、ある試験でございました。

某公的機関の採用試験だったのですが、あさ、めざましで七時に目を覚ましますと、わたしは眠い目をこすりながらアラームを止め、そのまま二度目の眠りへと入ってゆきました。そして、次に目覚めたのが八時。わたしは気持ちのよいお布団から飛び上がり、髭もそらずに部屋を飛び出し、タクシーに飛び乗りました。

そうして、試験会場に到着しまして、ぎりぎりで入室。何とか戦場に立つことができたわけです。

まずは、マーク式の筆記試験。五つの選択肢から正解と思うものを選び、楕円の中を鉛筆でぬりつぶします。もはや、この手の試験は慣れっこです。高校生の頃であれば「こんなので人間の何がわかるっていうんだ!」と憤っていたでしょうが、わたしはもはや完全に学力試験というものに適応済み。何の疑問も抱かず、せっせとマークをぬりつぶします。いいかい坊や、こうやってひとはオトナになってゆくんだよ。

午後には記述式の試験が二つ。一つ目は専門的な知識を問うものですが、次のはいわゆる小論文です。

さて、この小論文というものがなかなか解せない。

いえ、難しいわけではないのです。書き方がわからないわけでもない。が、その存在そのものが実に奇妙に思われるのです。たとえば、本屋に行けばさまざまなジャンルの本がありますね。小説、エッセイ、紀行文、詩、論文、学術書、実用書などなど。しかし、小論文というものはない。

つまり、小論文というのは、試験のときにのみ受験生が書かされ、そして試験官のみが読むという、実に特殊なものなのです。「小」がつくとはいえ「論文」などというたいそうな名で呼ばれていて、その存在価値はただの問題でしかない。まるで、箱庭の中でしか生きられない実験動物のようではありませんか。

しかも、個性や独創性がさして要求されるわけでもなく、起承転結の構成と基本的な文章作法を守っていればそれでよいという、なんともおもしろみのないたぐいのものなのです。毎年毎年、どれだけの小論文なるものが、この国で生産され、採点され、処分されているのでしょうか。いやはや、まったくもって意味のない、存在根拠の薄弱な文章ではありませんか。

しかし、採点もされず、合格にもつながらず、何の益ももたらさない文章というのも、この世にはあるのですがね。ここに。

2013年6月1日土曜日

安心ひきこもりライフ

かつて私にも、真正ひきこもりだった時期がありました。

いまとなっては悪夢を見ていたような気がしますが、命からがら高校を卒業したあと、一年ほど実家にてひきこもり活動に従事していたのです。そのときの焦燥感・不安感たるや、恐ろしいものでした。所属がないというのは、実に、人間のこころを不安定にさせるもの。あの頃はまるで、自分が誰でもなく、世界の外にいるような気分でございました。

その後私は一念発起し、予備校の寮に入れてもらって、勉強漬けの一年を過ごしまして、その甲斐あり、大学に入ることができました。なんとか、ひきこもりから抜け出ることができたわけです。終わらないはずの地獄の刑罰が終わったような、そんな、信じられない気分でありました。

さて、それから後も、私はひきこもりという現象に興味を抱きつづけ、各種のひきこもり本を探しては読んでいました。斎藤環『社会的ひきこもり』はもはや古典。近著『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』も読み応えがありました。上山和樹『「ひきこもり」だった僕から』はこちらの心までひりひりするような赤裸裸な内容で、石川良子『ひきこもりの<ゴール>』は、博士論文が元のわりにはわかりやすいものでした。また、これは小説ですが、著者が元当事者である『NHKにようこそ!』は必読の書です。これが芥川賞と直木賞をW受賞しなかった理由がわかりません。

と、さまざまなひきこもり関連の本があるわけですが、出色なのがタイトルに掲げた本です。

勝山実『安心ひきこもりライフ』

これは、元ひきこもりの方が書いた、いわばひきこもりのマニュアル本です。かつてないコンセプトの本なのです。ひきこもり関係の本はだいたい学者が書いたものと当事者が書いた(もしくは語ったのを書き起こした)ものの二種類にわけられるのですが、後者のタイプは深刻になりがちです。語り口も、非常にまじめでシリアスになる。普通、そうならざるをえない。

が、この本は文章が実に洗練されており、ユーモアたっぷりで、楽しく読めます。そこらの小説家よりよっぽどうまい文章で、ひきこもりに関するあれこれが語られているのです。ひきこもりに関心が薄い人でも、きっと、軽妙洒脱なエッセイとして楽しめることでしょう。その、色彩をもたないなんちゃらという本など捨ててしまいなさい。

さて、さきほどひきこもりのマニュアル本だと言いましたが、しかし、完全にひきこもりを是としてすすめているわけではないのです。心からひきこもりたくてひきこもり、ひきこもりライフを楽しんでいる能天気な男の本、ではないのです。軽妙な文章の背後には、長年にわたる苦悩・葛藤・焦燥といった渦巻く負の感情がしっかり透けて見えます。ゴッホは、美は苦しみからのみ生まれると言いました。この本のユーモアは、やはり苦しみから生まれたのだと思います。

勝山実『安心ひきこもりライフ』、ぜひご一読ください。

またひきこもりに返り咲きそうな私は、今夜また読み返すことに致します。

2013年5月31日金曜日

傘にもの申す

いよいよ今年も、梅雨に入ったようです。

知らない人のために説明すると、梅雨というのは、五月から六月くらいにかけて、連日雨ばかりが降る一定期間のことを言います。暑い夏にそなえてダムに水をためる絶好の機会ではあるのですが、いかんせん、じめじめしてて鬱陶しい時期です。

雨を防ぐためには、傘という道具があって、わたしたちはこれを用いるわけですが、しかし、ひとつ言いたいことがある。言わねばならないことがある。

傘って、雨を防ぎきれてないよね?

いや、わかっています。これが非常に空気を読めてない発言であることは、承知しているのです。これだけ世界中で雨対策として傘が使われており、とりたてて不平も出ていないなかで、こんなことを言うのは、実に不適切だとは思うのです。

しかし、傘をさしたところで、はっきり言って、お腹から下あたりはそこそこ濡れますし、足下なんか、かなりびしょ濡れになります。完全に無傷で済んでるのは顔と肩と胸くらいではないでしょうか。畳むときには、結局手も濡れますしね。

いえ、わかっているんです。そのくらい、許容すべき、妥協すべきことだってこと、わかってるんです。これまでの人類史において、人々はみな、このくらいのことは多めに見て、がまんしてきたのだ。そのくらい、濡れたうちに入らんのだ。上半身がほぼ濡れてないなら、それで十分じゃないか。そう思って、傘のお世話になってきたのでしょう。実際、わたしも世話になっている。ありがたいと思っている。でも、それでも、一応は、言っておきたいのです。

傘って、雨を防ぎきれてないよね?

ああ、どこからともなく、お叱りのことばが聞こえてくる。そんなことを言うなら、おまえは傘を使うな。ずっと濡れていろ。あるいは、雨の日は外出しなきゃいいだろ。いい加減大人になれ。そんな叱責が聞こえてくる。

でも、それは極論というもの。感情としては理解できますが、もっと理性的に、合理的に、考えましょう。要するに、そのような傘の不完全さを補完してやればいいのです。そうすれば、人類は雨の日でももっと乾いていられるのです。

では、考えてみましょう。

なぜ、傘をさしていても下半身が、とりわけ足下が濡れるのかといえば、その主たる原因は地面からはねる水にあります。とすれば、足が地面から離れていればよい。浮いておればよい。ならば、傘に飛行機能を搭載致しましょう。傘の骨をもっと頑丈にし、円周の部分に小型のジェットを下向きに取り付け、柄の先にあるスイッチを押すと飛べるようにするのです。

そしたら、雨の日は、みんながメリーポピンズ。きっと、街中がメルヘンな光景になることでしょう。街の上空を飛び交う赤、青、黄、緑、紫などなどのカラフルな無数の傘たち。空中で交わされる、ほがらかなあいさつ。梅雨のあいだも、みんなみんな、スーパーカリフラジェイルスティックイクスピアリドーシャスな気分でお出かけができます。素敵ですね。

このアイデアの唯一の難点は、傘にしがみつくのに、かなりの腕の力が必要というところでしょうか。筋トレを、がんばりましょう。

2013年5月30日木曜日

幽霊ブーム

どうやら、幽霊ブームが到来しつつあるようです。

昨年あたりから、幽霊をメインに据えたテレビドラマが放映されたり、そういうたぐいの小説がちょこちょこ出たりしています。あるタレント学者が、「人間は孤独になると幽霊の存在を信じるようになる」と述べておりましたが、この孤独の時代において、幽霊に興味を持つひとの割合が増えているのかもしれません。

しかし、幽霊という存在は、なにもここ最近だけ注目されているわけではなく、古今東西ありとあらゆる文化の中にあったものです。シェイクスピアの作品にも、幽霊は重要な役どころとして登場いたしますし、わたしの敬愛する、あのごりごりの理性主義者イマニュエル・カント先生も、幽霊の存在には無関心でいられず、『視霊者の夢』という幽霊に関する独立した著作をものしております。

さらには、その弟子筋にあたるショーペンハウアーも幽霊については書いておりますし、発明家のエジソンが晩年に降霊術にのめりこんだというのは有名な話。つまり、どんなに頭脳明敏で合理的な思考をする人でも、幽霊をあたまから否定することはできないのです。それほど、幽霊というものは、人間にとってなにか根源的なものなのでしょう。

そして現在、幽霊は恐怖の対象としてではなく、むしろコメディの題材として注目を集めておる。これは、のっからないわけにはまいりますまい。ここで一つ、わたしは、幽霊を主人公としたコメディ小説を書きあげ、一山当ててやろうと考えております。

と言いましても、わたしの執筆力では長編をひとつ仕上げるのはなかなか厳しい。つきましては、わたしの出すアイデアを参考に筆を執ってくれるゴースト・ライターを募集致します。報酬は、花と水とだんご五つでいかがでしょう。

2013年5月29日水曜日

ランキング参加

いましがた、写真をアップロードしたり人気ブログランキングに登録したりした。なかなか骨の折れる作業だ。

四、五年前の自分であれば、こんなことは苦もなくできた。が、かなりのブランクがあったため、画像をあげるのにもリンクを貼るのにもいちいち考えたりヘルプに頼ったりせねばならなかった。ああ、HTMLをがんがんいじってレイアウトを変幻自在にかえていた頃が懐かしい。

ともあれ、まずはランキング登録は成功したようだ。きっとあなたの今見ている画面にも、ランキングのバナーが表示されているだろう。ぜひ、クリックしていただきたい。そして、あなたがもし年頃の女性であるなら、わたしとお付き合いしていただきたい。

意味のないものをもっと

きゃりーぱみゅぱみゅが大好きだ。

なぜか。それは、彼女の曲が意味不明だからだ。リリースされた曲のタイトルをざっと見ただけでも、その意味不明さは際立っている。なんだ、CANDY CANDYって。なんだ、PONPONPONて。しかも、実際に聞いてみればいよいよ意味なんてものはなく、ただ概念とイメージの怒濤がわたしたちの脳髄になだれ込んでくるのだ。

ではなぜそんな意味不明のキ印な音楽にひかれるのかといえば、世の中には意味がありそうでないものばかりだから。政治家もメディアも各種のアーティストも、意味ありげなことばを羅列しておいて、その実質はきわめて空虚。そんなのが常態化しているこの国で、さいしょから意味不明の、というか意味のないものはさっぱりしてて爽快だ。

ゆえに、やや意味が汲み取れてしまう、ややメッセージ性のある曲はいま一つで、つけまつけるやファッションモンスターはおもしろくない。意味が少しでも入ってくると、意味がないという特長が一気に損なわれてしまうから。

きゃりーぱみゅぱみゅには、これからも、そう、新作のにんじゃりばんばんのような、空虚なイメージの洪水を世界に溢れ出させて欲しいものである。わたしも、がんばる。

2013年5月28日火曜日

マンホールに落ちて

ある日、少女がお外を散歩していると、マンホールが開けっ放しになっていて、うっかりそこへ落ちてしまった。

「いったいどこの誰がマンホールの蓋をしめ忘れたのかしら。危ないったらないわ」

少女は落ちながらぷりぷりと怒っていた。

「だけど、意外とマンホールの穴の中は落ちるのが遅いものね。ビルから落ちるのとは大違い」

なんて考えていると、やがて底へ到着。

目の前には細い通路が伸びていたので、そこを先へ先へ進んでいった。すると少女は、ついに暗く湿った場所から脱出して、草原へ出て来た。

「あれ。あたしは地下深くにきたはずなのに、どうして草原があるのかしら」

少女は不思議に思った。そこは、まるで地上のように明るくて空気が澄んでてひろびろとした場所だったのだ。

「よう、お嬢ちゃん」

ふいに、まっ黄色の肌をしたつり目ではだかの人が、少女に話しかけてきた。

「きゃっ!」

もちろん、少女はおどろいた。そんな黄色い人間なんて、これまで見たことも聞いたこともなかったからだ。おまけに、服は着てないしなんだかにやにや笑っているときたものだから、思わず叫んじゃったってわけさ。

「おどろかなくてもいいだろ。お嬢ちゃん、どこから来たんだい?」
「あ、あの、あたし……」少女はおずおずと答えだした。「上の方よ。マンホールから落ちて、それで、ここまで来ちゃったの」
「なるほどね」

それから、黄色い人は少女の姿を上から下までじっくりと眺めた。

「なにか?」
「いや、どうもあんた、変わったかっこうをしているね。なんだいその、全身に巻いてある薄い布は?」
「布? これは、Tシャツよ。下のはジーンズ」
「なんだかじゃまくさそうだね。上の方ではそんなのが流行ってんのか」
「流行というか、ずっとむかしからよ」
「そうかい。不思議なこともあるもんだねぇ」
「そんなことより、上へ戻る方法を教えてくれないかしら? はやく戻りたいの」
「なぜ?」
「今日はあたしの誕生日で、夕方にはお友達を招いてパーティーをするのよ」
「なに、誕生日!」黄色い人はおどろいて言った。「いくつになるんだい?」
「十四歳よ」
「では、いまは十三歳という計算になるな」
「そうよ」
「で、生まれたときは何歳だったんだね?」
「え?」

少女は質問の意味がわからなくて、小首を傾けた。

「だから、生まれたときは何歳だったんだい?」
「そりゃ、ゼロ歳よ」
「なに!? ゼロ歳にしてもう外の世界へ出て来たというのかね、きみは! なんというせっかちなんだ」
「じゃあ、あなたは何歳で生まれてきたの?」
「おれが生まれたのはもう二十四歳になってからさ。だから、まだ生まれてから四年しかたってないんだ」
「でも、二十四年間もお母さんのお腹の中にいたら、さぞお母さんはたいへんだったでしょうね」

少女はそうやってあてこすりを言った。でも黄色い人はぜんぜん気にしているふうもなかった。

「だと思うだろ? 生まれてすぐ、おれは遅れてすみませんてあやまったさ。でも、遅れたおかげで母乳をやったり寝かしつけたり学校にやったりものを買ってやったりせずに済んで、むしろ助かったんだとさ。意図せざる孝行息子というわけだ」
「そう。ならいいけど……そうだ。そんなことより、どうやって上へ戻ったらいいの?」

少女はようやく本題を思い出して、あらためて訊いた。

「そうさな。上へ行くなら、あのネズミ野郎にたずねるのがいい。たしかいま、あいつはヤマジョギョを上へぶっ飛ばそうとしてるはずだ」

それから少女は、黄色い人に連れられて、草原の上を三十分ほども歩いた。すると、やがてちょっとした林が見えてきて、その手前には、銭湯の煙突のようなものが立っていた。そのてっぺんには何やらカエルみたいなものがはまり込んでいて、顔だけを出していた。

そして、煙突のようなものの周りには、足場のようなものが竹で組んであって、下の方には、少女の身長の五分の一くらいの生き物がちょこまかと忙しそうに走りまわっていた。

「ようネズミ、元気か?」
「おう、元気さ。わかったら今日は帰ってくれ。いまから打ち上げなんだ」
「うまくいきそうかい?」
「ああ、ばっちしだよ。わかったらさっさと帰ってくれ」

黄色い人は顎を上げて、煙突のてっぺんを見た。少女もならってそうした。上からは、あの変な生き物がぬぼっとした顔でこちらを見下ろしていた。

「あれが、ヤマジョギョっていう生き物なの?」
「ああそうさ」
「どうしてヤマジョギョは上へ行きたがってるの?」
「別に、行きたがってやいないさ。ただ、ネズミの実験台にされてるんだよ。お、そら、もうすぐ発射だぞ」

そのとき、ネズミがしっぽの先でマッチ棒をこすり、煙突の下から伸びる導火線に点火した。火はジリジリと導火線を伝わっていき、煙突の中へ隠れたかと思うと、ドッカーンッ! ものすごい音がして、ヤマジョギョが発射された。

ヤマジョギョは、牛のような低い声で叫び、手足をじたばたさせつつ、空の彼方へと飛んで行った。大きな体をしていたはずだが、ものの三秒で、ヤマジョギョは少女たちから見えないほど遠くへと消えて行ってしまった。

「よう、この変な布に巻かれた奴をだな、こいつで上へ飛ばしてやってくれなねぇか?」
「ええ? こっちは今一仕事終えたとこだぜ。やなこった」
「そこを助けてやってくれよ」
「なら、明日だ。明日やってやるよ」
「それじゃだめなの」少女は口を開いた。「今日はあたしの誕生日パーティーだから、今日中に上へ戻りたいの。お願いできないかしら」
「ちっ。困ったな。もう火薬がないんだ。今日中に打ち上げってんなら、今日中に火薬を調達してこなくっちゃならねぇ」

ネズミはめんどくさそうに言って頭をぼりぼりと掻いた。そして言うには、

「もし今日中に戻りたいってんならな、こいつで打ち上げるんじゃなくて、ジハンキモドキの巣へ行け。あそこに行きゃあ運び屋がいるから、いいルートを教えてくれるだろうよ」
「ジハンキモドキって? なにそれ?」
「行きゃあわかる。あとは黄色いのに案内してもらえ。おれは忙しいんだ。さっさと行け」

こうして少女は追い返されるようにして煙突をあとにし、黄色い人といっしょに歩き出した。ジハンキモドキなるものの巣をめざして……。


(たぶん、つづかない)

2013年5月27日月曜日

客引きをしよう

とりあえずいくつか日記を書いてみたが、どうだろうか。どうも、微妙に堅苦しい文章になってしまっている気がする。もっとくだけた表現で、わかりやすいものを書かなければいけない。ファミマのメロンパンてまじでフツーに超ヤバくねぇ?

私は、いずれはワシントンポストの主席コラムニストになるつもりだ。しかし、千里の道も一歩から、まずはここでよい文章を書けるようにせねばならない。と同時に、読者獲得につとめることも必要だ。目下、当ブログはネットの中でほぼ孤立しており、入り口といえば「乳毛」での検索ぐらいなのだ。これでは、いけない。

もう少し記事の数が増えてきたら、かつて他のブログで登録していたようなランキングサイトに登録しようと思う。あるいは、相互リンクの充実化やフェイスブックを利用したリア友の引き入れに着手してみよう。客引きは重要だ。このままではエディタで日記を書いてデスクトップに置いておくのと大差ない。虚しいばかりである。

「そんなことより、おまえの準ひきこもりのような生活こそ虚しいだろ」

ああ、聞こえない聞こえない。あああああ。

年齢確認ボタンの意味を考える

世の中には不思議がいっぱいだ。分からないことだらけだ。理不尽、不合理、不可解なことが日常に溢れている。その中でもここ最近突出して不可解なのが、セブンイレブンにおける年齢確認である。

私はたばこを吸うので、ときどきセブンイレブンでもたばこを買うのだが、いつも、レジにて年齢確認ボタンを押せと、店員に命じられる。もちろん、実際の口調はマイルドであり、「年齢確認ボタンを押してください」とかいう言い方なのだけれど、実質的には、「ボタンを押さねばたばこは売らん」ということである。

この措置は、一見すると未成年への酒・たばこの販売を防ぐための常識的な方法に思えるが、しかし、具体的な状況を考えてみると、とたんによくわからなくなる。私たちは迷宮へと誘われることになるのだ。考えてみよう。

もし客が、二十歳以上かどうか微妙であれば、店員は身分証明書の提示を求めるなどして、しっかりと客の年齢を確かめねばならないはずだ。きっと法律的にも、店側にはそうした義務があるであろう。そもそも、未成年がたばこを買いにきたのだとすれば、その時点で、そいつは自分の年齢をごまかそうとしているはず。だから、二十歳以上ならボタンを押せと言われても、「すみません。実は十八なんです!」と言うはずがないのだ。つまりこの場合、ボタンを押させるのは意味がない。

また、もし客があきらかに二十歳以上であれば、やはりボタンを押させる必要はない。見ればわかるからだ。

つまり、通常ありうる事態においては、ボタンを押させる意味はまったくないのだ。

だが、しかし、年齢確認ボタンを押させる意味は、どこかにあるはずだ。これは確実だろう。でなければ、客にわざわざボタンを押させるという労を取らせるはずがない。セブンイレブンという大企業が、完全に無駄なことを客に強いるはずがない。

そこで、論理的に考えてみると、あのボタンを押させる意味が出てくるのは、次の三つの条件を満たしている場合のみだということが明らかとなる。

①客が実際は未成年である。
②にもかかわらず、その客は自分が二十歳以上だと勘違いしている。
③かつ、その客はきわめて素直で正直である。


つまり、こういうことだ。


ウィーン。
「いらっしゃいませ」
「ラッキーストライク一つ」
ガタゴト。
「こちらでよろしいですね?」
「はい」
「では、画面の年齢確認ボタンをお願いします」
「え、年齢確認ボタン?」
「はい、こちらの画面上のボタンを、よろしければお願いします」
「二十歳以上ですか、か……あっ!」
「どうなさいました?」
「すみません。僕、十九歳なんです。うっかり忘れてました」
「では、お売りできませんね」
「はい、一年後に出直します」
「またご利用ください。ありがとうございました」
ウィーン。


あるかーいっ!

エイモス・チュツオーラ

この空白の一年半、ほぼ出会いがなかった。むしろ、以前からの友人とは疎遠になり、社交の範囲はかなりせばまってしまったほどだ。悲しいことである。

しかし、そんな実生活での孤独とはうらはらに、書物の世界ではきわめて衝撃的・印象的・感動的な出会いがあった。その出会いの相手とは、ナイジェリアの小説家、エイモス・チュツオーラである。

何かの本で、保坂和志という人がチュツオーラを紹介しており、少しは興味を持っていたのだが、昨年の秋頃だったか、チュツオーラの処女作にして代表作『やし酒飲み』が岩波文庫に加えられることになった。「よし、そんなら安いことだし、読んでみよう」と思って書店で手に取り、帰って読んでみたら、ものの二十頁ほどで完全に魅了されてしまった。

この作品をどう説明したらいいのだろう。一応、「小説」ではあるのだけれど、欧米や日本のいわゆる小説とはまったく趣が違う。心理描写なんてほぼないし、詳しい情景描写もない。セリフもそんなに多くない。そんなら何が書いてあるんや、というと、ひたすら「こんな奇妙でおもろいことがあった」ということが書いてあるのだ。

たとえば、主人公は死んだやし酒作りの名人を死者の町から連れ戻すために(ここでもうかなりキてる)、旅に出るのだけど、途中、死者の町の場所を知るために、ある夫婦に道を尋ねる。けど、その夫婦は(この夫婦は神なんだけど、でも主人公は神々の父なのだ)、すんなり教えてはくれず、「教えて欲しいなら死神を捕まえてこい」という。で、主人公は死神を捕まえにいって、撲殺されそうになりつつも、結局落とし穴に死神を落として捕獲に成功するのであった。

とまあ、突拍子のないユーモアたっぷりの展開がずっと続くのだ。他の作品もだいたいそうで、何かをめざして旅に出て、その道中でぶっ飛んだ出来事に見舞われるというのが基本構造。

とにかく普通の小説とは違って、比喩表現をはじめとしたレトリックはほぼないし、リアリズムの欠片もないし、既存の文学の影響もほぼ見られない。強いて言えばホメロスの『オデュッセイア』やL.キャロルの『不思議の国のアリス』に似ているが、でもそんなに似てない。絵画の世界ではアウトサイダーアートというものがあるが、チュツオーラはまさにアウトサイダーの小説家。ぽっと出て来て、他のアフリカの作家にさして影響を与えるでもなく、消えて行ったのだ。

『やし酒飲み』以外だと、『ブッシュ・オブ・ゴースツ』と『妖怪の森の狩人』、それに『薬草まじない』がおもしろい。『薬草まじない』は後期の作品で、評論家のあいだでは今ひとつの位置づけらしいが、私としては『やし酒飲み』と並ぶくらいおもしろく読めた。<頭の取り外しのきく狂暴な野生の男>と<ジャングルのアブノーマルな蹲踞の姿勢の男>の二人が実にしつこくて怖くて、でも滑稽で愉快だ。

次の一年半では、この二人みたいな変わった人物とリアルで出会いたいものである。

2013年5月26日日曜日

まだ生きてた

前回の日記を書いてから、実に一年半が経過した。

この間にはさまざまな出来事があったが、私は何とか生きている。就職には失敗するし、体調がどん底に落ちたが、それでもどっこい生きている。肩の毛も、あいかわずそこに生えている。

ふとネットの世界を見回すと、すでに個人ブログはその役割を終えたかのようだ。一般の人のほとんどはフェイスブックだのツイッターだのに流れ、匿名かつ不特定の人相手のブログは衰退の一途をたどっている。当ブログのリンク先も、ほぼ更新停止状態だ。

けれども、当ブログは続くのです。たとえ閲覧者がおらずとも、ブログ文化が廃れようとも、公務員試験に落ちようとも、後輩の子にこっぴどく振られようとも、その後輩の子にかした画集とDVDを返してもらえなくとも、その子が挨拶すらしてくれなくなろうとも、続くのです。

さ、ということで、次は二年後にお会いしましょう。