その丘の上にある空は、なぜだか橙色をしておりました。
私がいつ、どうやって、なぜ、その奇妙な野原に行ってしまったのか、それはまったく覚えていません。自分の足で来たのか、誰かに運ばれてきたのか、それもわかりません。とにかく、気づいたら私は芝生で覆われたそのなだらかな丘に寝そべっており、パチリと目を開くとそこに、橙色の空が広がっていたのです。
しかし、その空は、夕焼けのために橙に染まっているのではありませんでした。だるい上体を起こし、まだぼんやりした頭で周囲をたしかめてみると、太陽がなかったのです。その上、空一面がすべて、一様な橙色に染まっていたのです。もしこれが夕焼けならば、空の色は赤から群青へとグラデーションしているはずですが、そうではなかったのです。
まったくどうなってしまったのだろうと困惑しておりますと、そこへ、濃い紫色をしたひとが歩いてきました。私を心配してくれているのと同時に、警戒しているようでもありました。
「おい、あんた、大丈夫かい?」
「はい。まあ……」
ここがどこかもわかないし、自分の身に何が起こったかもわからないので、ほんとは大丈夫とは言い難いのですが、とりあえず怪我をしているわけでもないので、そう答えました。
「あの、ここはどこなんですか?」と私は訊きました。
「いやぁ、どこってほどの場所じゃないよ」
「でも、教えて欲しいんです。何県ですか? 何市ですか? それだけでも」
「そんなもん、知ったこっちゃないね。あんたこそ何もんだい? そんな布を全身に巻き付けたりして」
どうも、この濃い紫色のひとは話が通じないひとのようです。それはでも、そもそも全身すべて紫で、服も着ておらず、どこに間接があるのかもわからないような姿ですから、当たり前といえば当たり前です。
「ところで、この空なんですが……」
「おっと! 空だって! 空がどうしたって?」
なぜかかれは、急に興奮しだしてすごい笑顔になりました。
「この空は、どうしてすべて橙色なんですか? 太陽はもう沈んだんですか?」
「へっ! 太陽なんざもう七年も前に撃ち落として、ばらばらにして売っぱらっちまったよ。この橙色はおれが染めたのさ」
「まさか!」
「ほんとうだとも!」
「じゃあ、ずっとこの空は橙色なんですか? 青空は?」
「いやいや。たまには変えてるさ。興味があるってんならお見せしよう。ついて来な」
こうして、私はこの紫色のひとのあとについて、丘を歩いてゆきました。かれはいったんその小高い丘を下りきると、隣にあった三倍ほどの丘をのぼってゆきました。その頂上に到着しますと、釣り竿のような道具がひとつと、それに机があり、机の上には液体のような中身が入った色とりどりの注射器が置いてありました。
「見てな。これで空の色を変えてやるんだよ」
「いったい、どうやって?」
私はすっかり混乱してしまいました。けど、そんな私のことなんて気にも留めず、彼は慣れた手つきで釣り竿のような道具の先端に青いものが入った注射器をセットし、「これには濃縮された青が詰まってんだ」と手もとを見ながら得意げに言い、それからしゅるしゅるとその道具を伸ばし始めました。
「もうちょっとだ。見てろよ」
先端に注射器のついたその棒は釣り竿の要領でどんどん真上に伸ばされていき、とうとうそのてっぺんが見えなくなってしまいました。そしてすべて伸ばし切ると、上の方で「痛っ!」という声がかすかに聞こえました。
「よし、刺さった。じゃ、いくぜ」
紫色のひとは棒の手もとにあるスイッチのようなものをぐいっと強く押しました。すると、「ううっ」と上の方でうめき声があがり、やがて、針が刺さったのであろう場所を中心として、同心円状に、青色が広がってゆきました。青はみるみる橙を浸食していき、広い空がものの二十秒ほどで真っ青になってしまいました。
「すごいもんだろ? どんな色にでもできるんだ」
紫色のひとはにやりと笑い、ふたたび棒をしまいながら言いました。
それから、「もっと見せてやろう」とかれは言い、こんどは緑色の入った注射器をセットして同じようにしました。また、上の方で「痛っ!」とか「ううっ」という声がして、空が緑色に染まりました。緑色の空なんて生まれてはじめて見ましたので、私はなにか、身の毛のよだつ思いがしました。
「よし、次は何色にしようかな」
「いえ、もうけっこうです」
私はお断りしました。これ以上、空の色をぽんぽん変えられたら、頭が変になりそうだったからです。それに、信じ難いことですが、どうやらかれは空に注射をむりやり打ち込んで色を変えているみたいで、空がかわいそうになったのです。
「遠慮するこたぁない。それに、緑のままじゃきもちわるいだろ」
そういうと、かれは次に白をセットして、また同じようにしました。するとこんどは、空が「もういやだっ!」と叫び、空全体がぐらぐら波打ったかと思うと、急に雨が降って来たのです。経験したことのないような強い雨が、突如として私たちに降り注ぎました。
「こ、こいつは弱った!」
紫色のひとは頭を抑えながら大声で言いました。けれども、調子づいているからこういうことになるのです、きっと。私は、できる限りはやく、この紫色のひとのもとを去ろうと思いました。
が、雨がそれを許してくれませんでした。その雨は、さらさらとした普通の雨ではなくて、非常にねばっこい、どろどろとした雨だったのです。まるで、アラビックヤマトを浴びている気分でした。全身はびしょびしょ……ではなく、どろどろになってしまい、歩こうとしても、地面にたまったその液体のせいで足を上げられません。ここは丘の上ですから、かなりの量が下へ流れてくれているはずなのに、それでも、だめなのです。
やがて、私はその糊のような液体に口も鼻も塞がれて、気を失ってしまいました。
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