2015年12月25日金曜日

満月のクリスマス

メリークリスマス。美しい満月の夜、いかがお過ごしだろうか。

私は相変わらず、実家にて無職の日々を送っている。このごろ執心なのはドライブで、日に一度はひとしきり運転しないと気が済まない。特に用がなくとも一時間ほどはぶらついている。愛車の三菱ミニキャブは今日も絶好調。

さて、本日この聖なる一日、他に何をしていたかと言えば風呂場の掃除だ。私の両親はとにかく片付けや掃除といった方面にはズボラなので、風呂場はバスタブだけ洗えばいいと思っている。だから他の部分は多年にわたるカビの繁殖でまっくろ。一念発起し、一時間以上もかけて各所のカビを取り除き、十余年かけてへばりついた鏡の水垢を落としていた。

結果、風呂場は新築時を思わせるようなピカピカ具合。夜九時、いちばん風呂をいただいたのだが、心なしか昨夜よりからだが暖まる。カビどもがいなくなった分、リラックスして余計に暖まれたのかもしれない。

執筆についてだが、これは驚くほど進んでいない。ぶっちゃけた話、この一ヶ月で書き進めたのは原稿用紙にして六枚程度である。四百枚の長編を書こうと思ったら五年半かかる計算である。遅筆にも程がある。明日以降、脱衣所と台所を掃除したら、もっとまともなペースで書くことにしよう。

あ、そうそう。つい先日、とうとうスマホデビューを果たした。これまでなんだか面倒で、たいして気に入っていないガラケーをしぶとく使い続けていたのだが、実家に戻ったタイミングで思い切ってiPhone 6に変えてみた(6sよりだいぶ安かった)。するとまあ、これが便利。まあたいていのことはPCでもできていたが、スマホだとカーナビになるし、Siriはなかなか頭がいいし、電話番号だけでLINEのつながりが持てたりする。みんなが持っているだけのことはある。

というわけで、しばらくはドライブと掃除とスマホ、そんな日々が続きそうだ。

え、仕事は決まったのかって? まあ、そんなことより、ほんとに月がきれいだぜ。

2015年12月12日土曜日

落選&落選

もう部屋の整理も終わった。ある知り合いから軽自動車を無料で譲り受け、足もできた。あとはバイトを探すとか執筆するとか、活動あるのみ。と思いつつYouTubeを見たり近所をぶらぶらしたり犬猫と戯れている者です、こんばんは。

さて、今年は院を退学し、就職し、そして退職したという変転の多い年でして、執筆の方はほぼ進まず。実り、ほとんどゼロ。けれどもまあ、一応二つの新人賞には応募しておりまして、その結果が今月に入り、出ました。どうだったのか。

ダヴィンチ「本の物語」大賞、落選。
野性時代フロンティア文学賞、一次落選。

でございました。

ダヴィンチの方は、最終候補とその手前まで残った作品しか載ってなかったので、私の応募作がどこまで行ったのかわかりませんが、とにかく落選。応募総数205と、かなり少ない中で、上位8本程度に残れないという残念なことになりました。野性時代の方はもっとひどく、二年連続一次通過・二次落選でしたので、今年も一次は通るだろうと思っていたら、なんと三度目の挑戦でかすりもせず。かっこわるいことこの上ない。

というわけで、なんと2015年は一本も予選通過ならず、というありさま。

まああれです。フルタイムで働いてたら、やっぱ難しい。ツイッター界隈では社会人ワナビの方も多数いて、働きつつ執筆して、そんで最終に残ったりしてる人もいるわけなんですが、それってもう私からしたら奇跡。偉人。伝説。どうしてそんなことが可能なのかまったく分かりません。

ともあれ、今年もまだあと半月以上はある。一章でも二章でも、書き進めようと思います。目標は来年三月末〆切の小説すばる新人賞。これを、獲ります。

2015年12月8日火曜日

ビバ・パラサイト

実家生活も一週間が過ぎた。亡くなった祖母の部屋を整理し、自分用にカスタマイズするという作業もほぼ完了し、生活の基盤が整ってきた。

この一週間、車も原付もないし家の合鍵もないので、家族が仕事に行ったあとはひたすら猫と留守番という生活だったのだが、驚いたことに、一歩も家から出なくても生きていられるのである。ご飯は、家に夕飯の残りやインスタント食品などがあり、まったく困らない。生活用品はすべてそろっている。たまに欲しいものや本があっても、Amazonで注文すればおばちゃんが次の日に持ってきてくれる。何も不自由がない。

というわけで、もうこの一週間、ほぼ現金を触っていない。使う必要がない。一人暮らしのときは日に二度も三度もコンビニに通い、休日ともなればファストフードを食べたり何やかや買い物をしていたわけだが、現状、ほぼお金を使っていない。パラサイトシングル万歳である。

ただまあ、いつまでも隠居生活をしているわけにもいかない。そろそろ執筆は再開したいところ。今日は七行くらい書いたし、明日はもっと書こうと思う。年に最低三本は長編を完成させたいものだ。

2015年12月1日火曜日

実家暮らしスタート

実家に戻って二日目。まだダンボールに囲まれた状態で生活している。

ちょこちょこ帰省していたとはいえ、実家で本格的に暮らすというのは十年ぶりになる。どうなることやら。

まず、引越してすぐ気づいた、というか引越す前から気づいてたメリットというと、生活コストの低さである。家賃ゼロ、電気代ゼロ、ネット代ゼロ、駐輪代ゼロ、食費ゼロ。とんでもないゼロゼロ物件だ。まあ、親が払ってるわけだから、ある程度払えよという世間のお叱りも聞こえてきそうだが、そこさえ耳を塞いでいれば問題ない。

さらに、猫の存在がある。我が家にはチビという、茶色い猫がいるのだが、こいつをいつでも触れるというのがでかい。私は元来猫中毒である。一人暮らしのあいだはしょっちゅう「猫触りたい」という衝動に駆られ、毎夜のごとく煩悶していたのだった。が、今は毎日触れる。触ろうと思わなくてもよってくる。まさに天国のようである。

しかしデメリットも当然ある。ここはとんでもない田舎だ。過去、京都や滋賀の某所など、ある程度発展した場所に住んでいたので、ここは不便きわまりない。JRの最寄り駅までは車で30分、コンビニまでは徒歩で30分以上、原付でもなければ普通の生活は送れない。

あとは実家という場所の汚さである。これは個人的な事情でもあるが、実家というのはとにかく汚い。不要なものが数十年にわたり放置され、無駄に空間を圧迫している。やたら土地も家も広いためか、両親の頭には「ものを捨てる」という発想がない。そんなに高齢ではないから、モノ不足の時代に生まれ育ったわけでもないだろうに、壊れたものまでが部屋の隅に放置されている。これに耐えねばならないという問題はある。

ただ、総合的に考えて、やはり経済的な面での優位が勝る。なにしろ、一人暮らしと比べ、かかる費用がおそらく8万円ほど変わってくるのだ。これなら、月収十万でも余裕の暮らしができる。

というわけで、おおむね満足した状態で新生活はスタートを切った。仕事の件は、白紙である。

2015年11月19日木曜日

そろそろ発表

今更ながら、小説を書くのが楽しい。会社員生活によって創作欲を抑圧されていたせいもあるが、非常に楽しい。書くのも楽しいし、書いたものを読むのも楽しい。こういうところ、ほんとナルシストだと思うのだけど、自分で書いたものがめちゃくちゃ面白いのだ。書いたそばから何度も読み直してほくそ笑んでいるのだから世話がない。自給自足が完成している。

さて、ブログのアクセス解析を見ていると、日々新人賞の結果が気になっている方からの訪問があるのに気づく。ここでは予選通過者を発表していないから、がっかりさせているような気もするが、発表が近づくとネットでいろいろ見てみたくなる心理は分かる。

野性時代フロンティア新人賞の結果発表もたしかもうすぐ。12月発売の1月号で一次通過が発表だったはずだ。一応今年も応募しているのでどうなるか、近々確認しにいくことになる。思えば去年は4本出して、予選通過がここだけだった……ああ、心の古傷がうずいてしまった。忘れよう。

あと、もう一つ応募していた賞もある。ダヴィンチ「本の物語」大賞である。ここは「本にまつわる物語」を募集していたのだが、条件に合致するかどうか微妙な線のものを出してしまい、心配している。俗にいうカテエラ(カテゴリー・エラー)の可能性もある。あと、一次選考とか二次選考の発表があるのかどうかも分からない。おそらくなさそうな気がするが、どうか。ま、最終に残れないんならもうそのへんはどうでもいいような気もするが。

執筆に話を戻すと、今回三人称で書くことによって、というよりぶっちゃけて言えば、ピンチョンの文体を真似ることによって、表現の幅がグッと広がった。この感じならいくらでも書いていけそうである。毎年新人賞に片っ端から応募する勢いで原稿を量産していきたいものだ。

2015年11月18日水曜日

新作着手

無職となって二週間以上が経過。もうそろそろ「今頃職場はどんな感じかな」ってことも考えなくなってきた。毎日フリーなのが普通になってきた。

で、何をやっているかと言えばもちろん執筆。実家に引き上げるまで一ヶ月の猶予を取っておいたので、目下ひきこもって執筆をメインに暮らしている。

いま着手している作品はもう一年半前にはおおよその構想があったものだ。設定なんかもだいぶ考えてあった。が、なぜだかこいつは書くたびに失敗してきた曰く付きのもの。去年だって二度、一章分は書いたのに結局うまくいかず放棄してしまった。

それが今回、実にうまくいっている。就労により何がしかマインドの変化があったのかもしれないが、それは置いておくとして、表面的には人称を変えたのが大きい。前回まではとにかく一人称でしか書いてなかったし、一人称でしか書けないと思い込んでいたのだが、三人称にしてみることで急に視界がひらけた感じになった。いっぱい登場人物が出てきても、それぞれの情報、エピソードを書き放題で便利。これはいい。

もっとも不便な点もある。何でも書ける反面、いちいち調べることが多いのだ。一人称で、主人公の主観だけ書けばいいならまだ楽だけれど、いろんな人物を描くとなると、手間が一気に増える。執筆スピードも遅くなる。

ということで、遅々たる歩みではあるが、確実に筆は進んでおり、この分なら遅くとも二月中旬には完成しそう(はやければ一月中旬)。がんばろう。

2015年11月11日水曜日

表現の不自由

ひゃっほー今日も休みあさっても休み。イェイ、めーっちゃ、ホ・リ・デー!

柄にもなくテンションの高い始まり方をしてみた。もちろん実際はiMacの前で仏頂面を下げてカタカタやってるわけだが、つい「ひゃっほー」なんてタイプしたくなるくらい浮かれてる。十日間無職を経験し、気分はアゲアゲである。

さてそんな中、サラリーマン生活についてふと思い出したことがあった。表現についての問題だ。日本はもちろん憲法によって表現の自由が保障されている。だから政府はアナキストの書いたものでも殺人賛美を謳ったものでも、検閲したり発禁処分にしたりはできない。けれども日常レベルでは、表現の自由などあってないようなもの。とくに会社の中ではそうだ。

会社にいたころ、二ヶ月に一度、レポートを書くことが義務づけられていた。社長もしくは会長の動画を視聴し、それに関連させて何がしか2000字ほどのものを書くのだ。これが私はいやだった。

実際どんなものを社員が書いていたかと言えば、社長もしくは会長のメッセージに賛同するものばかり。というかそれしかない。「私もそう思います。たとえば業務でこんなことがありました。かくかくしかじか。これからもがんばります」みたいな。はっきり言えば小中学生の作文と同レベル。型がばっちり決まっていて、自由に書く余地がない。塗り絵みたいなものである。

思い返すに、世の中で文章を書かされる場合、そのほとんどは暗黙のうちにルールが指定されている。ある程度は内容まで指定されている。それが苦痛である。「自由に書きなさい」と先生は言うかもしれない。しかしそれが嘘だってことは小学生でも分かる。「殺したいほどお母さんがきらいです」と書いていけないことは分かってる。だから決まりきった筋書きで原稿用紙のマス目を埋める。国語の時間にKY精神が植え付けられる。誰得である。

たしかに国家権力による弾圧はほとんどない。しかし日常レベルでは表現の自由などあってないようなもの。会社に属していればなおさらだ。しゃべり言葉も書き言葉もみんな既存の鋳型に流し込まれて、かつて持っていたはずの語彙までも忘却の彼方、そしておそらく、思考と感性までも一定の型にくり抜かれてしまうのではなかろうか。学校出てから十余年、ザ・サラリーマンの一丁あがり。

会社員に表現の自由などない。

2015年11月8日日曜日

マリオメーカー

仕事を辞めてちょうど一週間。お恥ずかしい話、この間いちばん時間を費やしたものは何かと問われれば、睡眠を除くとこれ——マリオメーカーの動画を見ることだ。

もともとスーパーマリオはそこまで好きじゃない。ファミコン、スーファミは子どものころ人並みにやったが、マリオにそこまで入れ込むことはなかった。なのになぜか、マリオメーカーの動画には惹き付けられる。

マリオメーカーとは、今年九月頃に発売されたゲームソフトである。初代のマリオ、マリオ3、スーファミのマリオ、Wii Uのマリオのステージを自分で作れ、オンラインで世界中の人と共有できるというソフトである。現在、まさに世界中の人々がこのソフトで斬新なステージを作成し、プレイしている。

何がいいって、これほどクリエイティブなゲームもそうそうないことである。自由度がきわめて高い。土管やリフトやドアといった道具、クリボーやノコノコやドッスンといったほとんどあらゆる敵キャラ、もちろんキノコやフラワーのようなアイテムまで、すべて自由に配置できる。それらを利用し、ほのぼの楽しめるコース、一切ボタンに触れなくてよい全自動コース、音符ブロックを利用した音楽を奏でるコース、高難易度のいわゆる鬼畜コースなどが量産され、ランキングでしのぎを削っている。

こうしたものを動画で見ていると、こちとらクリエイター志望である。どうしたって興味をそそられる。自分ならこんなコースを作るだろうと妄想が膨らんで行く。下手をすると、たばこを買いにコンビニへと向かう道すがら、コースの設定やタイトルを考えている。これならランキング上位に行けるのではないかと、胸が高鳴り足取りが軽くなってくる。マリオメーカーって本当におもしろい、なんて思ってしまう。

ただ、ふと現実を見てみればこう。

テレビもない。ハードもない。マリオもそれほどうまくない。これではどうしようもありゃしない。

2015年11月6日金曜日

交通費の怪

無職となって一週間、だいたい一日に二、三冊のペースで本を読んでいる。読書に没頭できるのは何より幸せだ。他にやったことと言えばヒゲソリで右手中指を切ったのと風邪を引いたこと。そんな充実した日々を送っている。

さて、仕事を辞める前は、辞職後にサラリーマン生活についていろいろ考えようと思っていたのだが、案外もう考えることがない。総括はほぼ終わっているかのようだ。けれどちょっと心に引っかかるのは交通費の問題である。

交通費。あまり取り上げられない話題だが、しかし大きな問題だ。

学生時代、私は家庭教師のアルバイトをしていた。仕事の報酬は会社から委託費というかたちで払われていたのだが、交通費は家庭から直接もらうシステムだった。そこで、おおかた実費をもらうことにしていた。一回行くと、往復で600円とか800円とかが多かった。

けれどときどき迷うことがあった。公共交通機関を使えばバスと電車で往復1000円ほどかかるが、自転車を利用すれば往復で400円ほど浮くというケースがしばしばあったのだ。なので私は、いくらか罪悪感を覚えつつも自転車をこぎ、余分な交通費を懐に入れていた。

先日まで勤めていた会社でも、交通費に関しては一悶着あった。自宅から職場までは電車で一駅あるので、一駅分の交通費を会社から支給してもらっていたのだが、あるときから自転車で通うようになり、定期は買わずにその分の交通費は懐に入れていた。しかしやがて上司に見とがめられ、使用しないのに定期を買うはめになった。結局のところ、その定期代はJRの丸儲けである。

どうも交通費というもののシステムがよく分からない。職場までかかる費用を雇用主が負担してくれる。これはありがたい仕組みだ。だが、本来公共交通機関を利用すべきところを徒歩や自転車で移動した場合、その費用は懐に入れてもいいのではないか、とも思う。

気になったのでいまググッてみた。バス・電車を利用すると申請して自転車で通い、交通費を着服するのは詐欺や横領に当たるらしい。私は詐欺師だったようだ。ただ、交通費を満額もらいつつ金券ショップで安いチケットを買って利用することはだれも問題にしない。「賢い節約」の範疇で語られている。どうもよく分からない。

何にせよ、もうしばらく交通費も給料ももらうあてはないけども。

2015年11月3日火曜日

ユーネクストにご用心

毎月毎月、電気代・ガス代・ネット代と、生活のためにはさまざまな経費がかかるもの。今月もやや遅くなったが、これらの払い込み用紙をかき集め、金額を確認していった。電気代は2000円弱、ガス代は3000円くらい。妥当なところだ。が、ネット代のみ、いつもと様子が違った。

請求金額、合計が9178円。

おいおいこいつはどういうことだい。いつもは4000円ちょっとだったじゃないか。で、内訳を見てみると、そこには「ユーネクスト利用料」とあった。それが4556円とのこと。どうなってる?

ユーネクスト。その文字を見た瞬間、いやな記憶がフラッシュバックした。あれはもう何ヶ月前になるだろう。あるとき、一本の電話がかかってきたのだ。私はNTTのフレッツ光ネクストを利用しているので、その関係での勧誘だ。

「このたび、ユーネクストというサービスを開始致しましたのでお電話いたしました」

たしかそんな切り口だったと思う。この手の勧誘電話はよくあるから、しばらく電話口の若い男のセールストークを聞いていた。動画が低額で見放題だとか何とか。けど、その説明が長かった。もう細かいことは覚えていないが、やたら次々に説明を聞かされた覚えがある。立腹ポイント1である。

それでも我慢して一通り聞き終えると、驚きの言葉が飛び出してきた。

「もし利用されないなら、ハガキに書かれているIDとパスワードでいつでも解約できます」

おいおい、あんたは何を言っているんだい? 解約という言葉の意味をご存知ないのか? そもそも契約を交わしていなければ解約も何もないだろう。まだこっちは契約した覚えはないぞ。

なので、私はそもそも「ハガキは送らなくて結構」と告げた。これは確実に言った。だが、あちらはもう契約したこと前提で話を進めてくる。通話時間もだいぶ長くなっていたのでもう面倒になった。解約の手間を取られるという若干の理不尽さはあったものの、あとで解約すればいいと思い、電話を切った。

後日、実際にハガキは送られてきた。もちろん、YouTubeとiTunesで満足している私は、即刻解約した。したと思う。

そしてどれだけ経ったか忘れたが、なぜかこの度、NTTファイナンスからの請求書に、件のユーネクスト利用料が課せられていたのである。そもそも契約の意志表示をしておらず、その上解約までして利用料を取られるとは、NHKもびっくりの成り行きだ。

だがしかし、私の中に若干の不安要素はあった。自分は本当にユーネクストを解約したのかという問題だ。もしかしたら、ハガキを放置してしまったのかもしれない。が、Gmailを確認したところ、その疑念も払拭された。ユーネクストから「リトライキャンペーン」なるものが何度も送信されていたのである。「以前はユーネクストビデオ見放題サービスをご利用いただき、誠にありがとうございました」とある。あちらも解約したことは把握しているのである。おまけに、解約日も7月2日と明記してあった。

さて、ここでひとつの疑問が生じる。なぜ7月2日に解約したサービスの請求が今になってやってきたのか。そしてそもそも、なぜ無料期間中に解約したサービスの請求がくるのか。

こんなものは払わずにいようとも思ったが、フレッツ光ネクストの料金は払わねばならない。払い込み用紙は合算されているので、ユーネクストのみ支払い拒否することはできない。なので、一応は払った。が、納得のいくはずもない。

思い出すのは、アマゾンプレミアムの経験だ。もう何年も前、無料の言葉に釣られ、私はアマゾンのプレミアム会員になった。そして、一定期間経過後、自動的に有料会員になっていた。このときも立腹したものだが、しかし実際便利だったので、いまだに会員を続けている。それに、このときは最初の契約自体はこちらが自発的にしたものなので、まだ納得はできた。規約をつぶさに読めば、有料への移項も事前にわかったはずだ。

だが、今回は別である。そもそも勧誘の電話を受けただけで、契約などしていない。していないのに解約して、そのうえで料金を払わされている。理不尽きわまりない。それも、NTTという社会的信用のある会社と協力してやっているのである。合意なしに契約を結んだことにして料金を請求する。ひとはそれを詐欺と呼ぶのではなかろうか。

なんとかして、4556円を取り戻しに行きたい。



追記(12/25)

ユーネクストと二度メールのやり取りをし、返金してもらうことに決まった。それはもう一ヶ月ほど前になろうか。そしてつつがなく返金用の口座を記入する書類が送られて来、記入して郵送。本日、上記の4556円は無事に口座へと返金された。

メールのやり取りの中で、私はひとつ、思い違いをしていたことに気づかされた。それは、ただ即座に解約すれば無料になるというわけではなく、キャンペーンの申し込みみたいなものも同時にしなければいけなかったということである。一度目の返信では、その旨電話やハガキで伝えているはず、とのことであった。

だが、私の場合、勧誘の電話があったとき、そんなことは聞かされていなかった。なので、「そんな案内は聞いていない」と返信。すると、「こちらも案内の不徹底もあったようなので、返金します」という、だいたいそういう旨の連絡が来た。で、実際に返金に応じてもらったという次第である。

おおむね連絡は迅速かつ丁寧。他にも、ユーネクストの料金徴収が理不尽だと思った人はメールで問い合わせてみて欲しい。

2015年11月1日日曜日

先生辞めました

仕事を辞めた。つまり、塾講師を辞めた。すでに退職済みなので、もう職種を書いてもいいだろう。

十月に入ってからはもう出勤したくない気持ちが強く、一日でもはやく辞めたかった。だが、実際に最後の日となると、生徒と離れる寂しさが勝った。八ヶ月。他の講師たちに比べれば生徒との関係は短かったわけだが、それでも愛着は湧いていた。授業はへたくそでまたたくまに降板させられてしまったが、その後も毎日生徒たちは質問に来たので、関係性は着実に強くなっていた。

しかし、辞めてしまえばもう会うこともない。当然、仕事上のタブーとして連絡先の交換などもしていない。「さようなら、かわいい生徒たちよ」。昨夜、職場の鍵を返却し、さっぱり整理した机をあとにした私は、自転車をこぎながら思った。

それから一夜あけ、本日昼過ぎ、無職となった私はローソンにいった。お昼にカルボナーラとチキンとメロンパンを買った。寒さの増した空気のなかを、袋をぶらさげ、マンションの自室に向かって歩いた。すると、前から二人の中学生女子が自転車に乗って近づいたきた。おや、あれは。すれ違いざま、私は言った。

「こんにちは」

二人は生徒だった。どちらも、以前は授業で教えており、その後もたびたび質問に来ていた生徒だ。つい昨日も湿度や温度、飽和水蒸気量の問題について教えたばかり。

「こんにちは、先生!」

アラレちゃんに似ている片方の生徒が元気にいった。そして去っていった。離職の件は生徒たちには一切言っていないので、彼女らは明日も私が塾にいると思っているだろう。まさか、もう二度と姿を現さないとはゆめゆめ思ってはいないだろう。

「先生」と呼ばれることも、先の人生、もうほとんどあるまい。質問攻めに合い、「先生、はやくこっち来て!」と取り合いされることもないだろう。そう思うと寂しい。しかし、仕事に行かなくていいと思うと嬉しい。

2015年10月28日水曜日

引きこもり青年の旅立ち

YouTubeでこんな動画を見た。テレビのドキュメンタリーからの転載だ。

ある三十五歳の青年がアパートの一室で一人暮らしをしている。しかし働いていない。いわゆる引きこもり。三年以上ものあいだ、親から仕送りを受け、一人で引きこもっているのだ。そこへある団体の男がカメラ連れで乗り込んでいく。「汚ねぇな」などと言いながらずかずかあがり、「靴のままでいい?」と、文字通り土足で踏み込んでいく。

部屋の住人である青年はなされるがまま。本来、見知らぬ人間が上がり込んで来たら警察を呼んでもいいようなものだが、そんな機転はない様子。身なりだけびしっとした男はため口で言う。「なんで働いてないの?」「このままじゃだめでしょう」などなど。

そこからもよくある展開が続く。引きこもり青年は車で施設へと連行され、そこで待っているのは集団生活。ほかの不登校、引きこもりの若者たちといっしょの生活だ。ともに掃除し、ともに料理し、ともに農作業をし、ともに社会復帰をめざす。センチメンタルな音楽とともに、仲間と笑顔を見せる青年。「ホームヘルパーの資格を取ろうと思います」。おわり。

さてさて、この型通りのストーリーはいかがないものか。戸塚ヨットスクールに代表されるように、どうも不登校や引きこもりの自立支援屋たちは青少年らを集団生活させたがる。それが自立訓練だというのだ。だが待て。集団行動など、だれしも小中学校でやっているではないか。高校でもやっている。それが訓練になり、自立を促す効果があるのなら、中学卒業段階で脱不登校、脱引きこもりしていなければおかしいではないか。今更、三十路の峰を越えてまで同じようなことをさせて、いったい何の効果があろうか。

こうした活動の根底にあるのは、だれしも訓練によってまっとうな社会人になれるというイデオロギーである。思い込みである。迷信である。個々人の特性を無視し、然るべき処置をすれば社会に適応できるはずという根拠のない考えがある。いかがなものだろうか。

人間、性根というのは変わらない。人と関わるのが苦手なら、それはやはり、人と関わることに向いていないのだ。苦手なものは苦手、きらいなものはきらい。それはもう仕方がない。

腹立たしいのは、たまたま社会で是認される価値観を持っているだけで、自らを疑うこともせず、他人にまで威圧的に迫る、あの自立支援屋である。「働け」「親に迷惑をかけるな」「ひとと関わるのはすばらしい」「自立しろ」「ひとは一人では生きていけない」。そういうたぐいのことを言っておけば、だれにも非難されない。何なら、他人に威圧的に迫ってさえ、その暴力は是認される。おそろしいことである。

2015年10月22日木曜日

養ってくれる女性募集!

無職になるまであと九日。休日を除けば、出勤日はあと七日である。いよいよカウントダウントといったところ。

仕事を失えば、もちろん給料は入ってこない。出勤せずとも給料を振り込んでくれればありがたいのだが、そんな幸運は望めない。これまでは毎月二十五日に莫大な富が転がり込んで来たものの、それがゼロになってしまう。

給料がなければ物が買えない。食べ物も生活必需品も買えない。お金を払わずとも物をくれればありがたいのだが、そんな好都合なことは期待できない。したがって、生きていけないことになる。無慈悲な論理である。

そんな事情により、もうすぐ実家に帰ることになるのだが、しかし本日、職場からの帰り道でひとつ、別の選択肢を思いついた。暗い夜空のもと、自転車をこぎながら、頭の上にピカッとあることが閃いた。そのときの閃光はかなりのもので、暗闇に満たされていた周囲の畑、民家、シャッターの下りたクリニック、歩道橋などが一瞬真昼のごとく照らされたほどであった。さてそんな超新星のごときアイデアとは何か。それは、タイトルでネタバレしているが、だれか女性に養ってもらうというものである。

私は知っている。世の中には、孤独に過ごしている女性がたくさんいることを。学校を出、会社に就職し、とりあえず働いてはいるものの、忙しいし寂しいし、心にぽっかり穴の空いた女性がいることを知っている。そのココロのすき間、お埋めしましょう。

「なにを都合のいいこと言ってるの。あんたを養って何になるっていうのよ!」

まあ落ち着いて。振り上げたバッグをおろして、あたたかいココアでも飲みながら、まずは話を聞いて欲しい。

まず、私は掃除が得意だ。整理整頓には自信がある。学生時代、私の部屋を訪れた友人・知人の八割は、私の居室を見て「ホテルのようだ」「モデルルームのようだ」と嘆息していたほどなのだ。忙しくて片付け、掃除、ゴミ捨てがろくにできないというあなたのために、私はいつでも、部屋をきれいにしておくことができる。

第二に、毎日手作りの料理を用意してあげられる。もうすでに十年近く一人暮らしの経験があり、そのうちの大部分、私は食事を自炊でやってきた。ある程度のレパートリーはあるし、経験がない料理にも臆せずチャレンジすることができる。私の開発した餅チーズのお好み焼きは絶品だし、ハンバーグの焼き加減はびっくりドンキーもびっくりの一品である。外食、コンビニ弁当が多いあなたの食生活は、私の存在により一変するだろう。

さらには、いつでも愚痴を聞いてあげることができる。いやな上司にお説教された、同僚のミスを自分のせいにされた、こなし切れない量の仕事を押し付けられた、さまざまな理不尽・不条理に疲れ傷ついたあなたの心の嘆きをいつでも受け止めよう。そして決して批判せず、説教なんてもちろんせず、やさしく肩を抱いて慰めてあげよう。

これだけのメリットがありながら、おそらく、私ひとりを養うコストと言えば、月に三、四万の生活費増といったところ。小食だからさして食費はかからない。ギャンブルもやらない。たばこは吸っているが、ご希望とあればいつでも辞める。

ご応募、お待ちしております。

2015年10月19日月曜日

会社員になって分かったこと

会社員生活、残り二週間。この二週間が、私の意識の中で永遠とも感じられるほど遠く遠く伸びている。先が見えないほど、この二週間という時間は長い。おそらく、過ぎてしまえばあっという間。けれど、あと二週間あると思うと、気が遠くなるほど。

ともあれ、もうすぐ終わりなのは事実。それは私の意識と無意識にも影響を及ぼしており、緊張感が低下気味。おまけにやる気はすっからかん。そうなれば仕事上のミスも増えてきて、このところ週に二回くらい上司に怒られている。温厚な上司のため「雷が落ちる」というのではないが、いやな感じでじわじわ来るので「背中に正体不明の爬虫類を入れられる」といった感覚。

さて、もうすでに退職が見えているため、内心ではサラリーマン生活の総括がはじまっている。詳細なことは退職後にするつもりだが、やや先走って、今回は少し、会社員になって初めて分かったことを記しておきたい。

過去の私から、こんな質問が飛んで来たとしよう。

「どうして会社員の人は、仕事内容についてあんまり具体的なことをしゃべったりネットに書いたりしないんですか」

いい質問だ。学生のきみは授業のことや友達とのことについてあれこれネットに書きまくっているから、その延長で社会人もやればいいと思うのだろう。答えのひとつは、時間がないからだ。学生と違い、会社員は時間がない。週に五日、毎日九時間程度は働いており、家でも仕事関連の用事をせねばならないことがけっこうある。となると、仕事のことを落ち着いて考えたり、ましてそれをおもしろくネットに書くというのは、時間的に無理なのだ。

それから、守秘義務だとか特定されるおそれだとかがある。会社に属していると、さまざまな会社の情報、顧客の情報を目にする。たとえば、私がここに会社のさまざまな数値だとか、こんなクレームがあったとか、こんなオモシロ顧客がいたとか、そういうことを書いたらアウト。たいへん問題になる。だからあまり書けないのだ。もちろん、守秘義務に抵触しないようなことも多いが、会社というのはそれ以外のつまらないことでも、あまり公にして欲しくないものなのだ。私などの社員も、もし同僚や顧客に、このブログが特定されたらどうしようとヒヤヒヤもの。

そんなわけで、なかなか会社員という立場上、ネットで情報を発信することは難しい。辞めたら、ギリギリまで書くけどね。

では第二問。

「ドラマとかで、サラリーマンはいつもパソコンに向かってるイメージがありますが、あれは何をしているんですか」

これは私も多いに疑問だった。忙しい忙しいと言いつつ、たいていテレビの中のサラリーマンというのはデスクでディスプレイとにらめっこをしている。あれは何をしているのか。正解は、私の知る限り、書類作り・報告業務・発注などである。

私も日々、仕事時間にパソコンに向かうことが多いが、エクセルでものの数を打ち込んだり、チラシなどを作成したりしている。あとは、出勤時間だのレポートだのの入力も多い。組織というのは、とにかく何をやるにも報告が必須。200円の交通費をもらうのにも、データを打ち込み、プリントアウトし、ハンコを押し、さらに他二つほどハンコをもらって承認を得るといった手続きが必要になる。それが案外煩わしい。組織を管理しようと思うと、そういうコストが必要になってくるのだ。

「どうしてサラリーマンの人って、仕事終わりによくお酒を飲むんですか」

これは私もまだ分からない。分からないのだが、事実として、お酒好きは多い。学生のころより多い。もうだいぶ薄れたのだろうが、それでもまだ、お酒を飲むこと、しかもたくさん飲むことは美徳だという風潮がある。それがストレス解消にもなっているようだ。昔、「クリノトリガー」というゲームでレイラという原始人の女キャラがいた。強い女原始人というキャラ。そのレイラが、主人公のクロノと酒の飲み比べをするというシーンがあった。その飲み比べでクロノが勝つと、レイラから賞賛されるのである。そこから推察するに、人間は太古より、酒に強いことが美徳という価値観があったようである。その太古からの流れが、現在のサラリーマン部族に受け継がれているのであろう。

さて、そろそろ夜も遅くなってきた。続きはまたいずれ書くことにしよう。

2015年10月17日土曜日

サラリーマンのすごいとこ

就職してもうすぐ八ヶ月、この短い会社員生活のなかでたくさんの驚きがあった。サラリーマンというものに対する発見があった。その中で最大のものはこれである。

サラリーマンは、会社のことを自分のことのように考える。

これがもっとも意外であり、驚きだった。会社員なのだから、たしかに会社には属している。そこに身の置き所がある。けれど、私などからすれば、会社は会社、自分は自分。会社が傾こうが潰れようが、自分が死ぬわけではない。逆に、会社がえらく儲かろうが、そこまで給料が増えるわけでもない。なのに、他の社員たちの振る舞いはどうだろう。まるで会社のことを我がことのように感じ、考えているかのよう。

一月ほど前、あるアンケート結果が出た。いわゆる顧客満足度のような調査結果である。それが、私のところはだいぶよかった。他と比べてなかなか好成績だった。上司と先輩は「よかった」「やった」と喜んでいた。そうして結果の印刷されたプリントから目を上げ、私に尋ねた。「嬉しいですか」と。私は答えた。「ええ」と。

すると、上司と先輩はかわいた笑い声を発した。私の気のない返事に拍子抜けしたかのようだった。それもそのはず、私の「ええ」はイエスの意味からはほど遠く、内心の「どうでもいいっす」というメッセージが気の抜けた二文字ににじみ出ていたのだから。

どうも私は、会社のことを自分のことのようには思えない。会社の目標は会社のもので、私には私の目標がある。それは別個の存在だ。そんな意識が根本にある。もちろん経験の浅さというのも大きな要素。これがあと五年十年と経てば、意識も変わってくるだろう。けど、やはりそこまで組織にアイデンティティーを置くことはなさそうだ。そんな気がする。

会社が儲かったって、一部上場したって、私自身が儲かるわけでなし、有名になるでもなし、あまり関係がないという意識がベースにある。そんな私が傍目で見るに、組織の動向に一喜一憂できるサラリーマンというのはすごいものだと思う。ひょっとしたら、会社員としてまともにやっている人というのは、だいたいこの能力を持っているのかもしれない。それを社会性と呼ぶのかも。だとしたら私は……

どうも、社会不適合者です。

月末、会社辞めます。

2015年10月15日木曜日

「を」入れ言葉よ滅びろ

「を」入れ言葉が気に障る。

いつからか、「を」入れ言葉がはびこるようになった。むかしはほとんどなかった。使い始めたのは政治家らしい。「皆様にご支持を頂いて」「議論をしているところです」「整備をして」「予定をする」「開始をする」などなど、「を」が至る所、はびこるようになった。

元来、こんな「を」どもは要らなかった。なくてよかった。なのに、なぜだか政治家は「を」を好んで使うようになった。それからしばらくし、一般の大人たちも使うようになった。なぜだか、改まった場面であればあるほど、「を」は顔を出すようになった。なくてもいいのに、こいつは二字熟語と見ればどこへでもくっついて出てくるようになった。

先日も、JRの駅で電車を待っているときのこと、駅員はこんなアナウンスをした。「間もなく、貨物列車が通過をいたします」。私は、目の前を横切る貨物列車を眺めながら、それが引き起こす風を浴びながら思った。「通過します、でいいではないか」と。しかし、電車は「通過を」していった。

はなはだしきは、二字熟語以外のものにまで膠着する「を」である。「お願いをいたします」「お詫びを申し上げます」「びっくりを致しております」などなど。最後のものなどほとんどギャグである。内館牧子『カネを積まれても使いたくない日本語』で紹介されていた用例だ。「びっくりを致す」。計算でやっているなら尊敬してしまうほどのセンスである。

とにかくこの「を」入れ言葉がきらいなのだが、なぜかって、この言葉の変化には合理性が欠片もないから。「ら」抜き言葉はよかった。あれはすばらしい。なるべく言葉を短くすると同時に、意味の細分化まで実現していたからだ。「ら」があれば受身と尊敬、「ら」抜きなら可能。この変化は日本語に豊かさをもたらした。ところがどうだ。「を」入れは無用な一文字をあちこちに挿入し、意味には一切の変化をもたらさない。おまけに、「議長を拝命を致しました」のように、目的語の連続という醜悪な現象まで引き起こしたのである。

なぜか分からないが、改まった雰囲気であればあるほど、ひとは言葉を不要にながくしたがる傾向があるようだ。「させていただきたいと思います」のたぐいもそれと同根だろう。そういう言葉がきらいだ。余分な「を」どもよ、滅びろ。

2015年10月12日月曜日

ピンチョンとタランティーノ

以前、トマス・ピンチョンについて軽く書いた。

ピンチョンというのはアメリカの作家だ。現在、たしか八十歳くらい。ポストモダン文学の巨匠だの、ノーベル文学賞候補の常連、はたまた文学の怪物だなどと称されている。寡作ではあるのだが、一作ごとのボリュームが凄まじい。翻訳を上下巻合わせたら8,000円越えなんてのもある。質もそりゃたいそうなもので、発売されてすぐ古典文学並の扱いを受け、学者たちがこぞって研究するとかしないとか。とにかく、現代世界文学の大物だ。

そのピンチョンの著作、『ヴァインランド』というのを読んでいる。彼の作品の中では比較的とっつき易いと言われており、ボリュームも一冊で完結しているのでそれほどではない。が、あくまでそれは「ピンチョン作品としては」の話。他の作家のものと比べれば十分に重厚で長大だ。そのため、五年前にチャレンジしたときは弾き返された。五十ページほどでギブアップし、私は古書店でそいつとさよならしたのだった。

が、あれから時がたち、再び書店にて『ヴァインランド』を購入。今度はすごかった。あっという間に引き込まれていった。同じ本で、大人になってから挫折したものに、こうまで違う印象を抱くとは、正直不思議ですらあった。だが、彼の細部へのこだわり、独特の比喩、しれっとした誇大妄想的な嘘、ダウナー系の愛すべきダメ人間たちの言動が、私の琴線にビンビンと触れてきたのだ。

たとえばこんな描写がある。ある海岸近くの丘の上、元修道院だった館の中に、おかしな女の集団がいる。そこで集団生活を営んでいる。彼女らはくの一なのだ。忍者の秘術を習得し、維持し、さらには料金を取って広めている。あるいは、DLという女がいて、そいつは日本へ渡ってくると、ヤクザとも繋がりのあるアウトサイダーな武術の達人に弟子入りし、さまざまな忍術を会得する。そうして八面六臂の活躍。はたまたとある建物が、明らかにゴジラと思しき怪物に踏みつぶされて全壊したり、空をゆく飛行機に謎の飛行物体が横付けしてパーティーの邪魔をしたり、まさしくパラノイアのような展開が相次ぐ。

さて、今回言いたいのは、ピンチョンがおもしろというだけではない。それは、タランティーノ映画との類似。デビュー作の『V.』を読んだとき、私は「パルプフィクション」を連想した。細部のフェティッシュな、もったいぶったような描写、本筋と関係のない枝分かれ的な展開と登場人物たちの口論、時間軸の行ったりきたり、いくつかの筋の転換と交錯、バイオレンスやエロを淡々と、しばしばコミカルに描く語り口、そんなものが二つには共通していた。

そうして『ヴァインランド』からは、「キル・ビル」に似たものを感じた。というより、これはもう明らかに影響関係がありそうだと思った。上にも書いた、白人の女が日本で武道の訓練を受けるだとか、アメリカから見た奇妙なニッポンを好きなだけ描くだとか、かつて関係のあった男をこんどは倒しに行くだとか。雰囲気や手法だけでなく、モチーフのレベルでもこの二つは似ていた。ネットで軽く検索したところ、タランティーノはピンチョンからの影響について公言はしていないらしいが、偶然似たにしてはできすぎている。

コンテンツというのは、映画にせよ小説にせよ、独立に存在するものではない。ニュートンが「私は巨人の肩に乗っている」と言ったように、創作だって、過去の偉大な作品群のもとになりたっている。明らかなオマージュがあるとかないとかは関係ない。そんな影響関係も意識していけばより作品を深く味わえるだろうし、「取り入れ方」の参考にもなるはずだ。

2015年10月4日日曜日

社会人言葉

就職して八ヶ月目、いまだに社会人として、会社員として、言動がこなれていない。

もともとそんな危惧はあったのだ。学生の頃から、いわゆる社会人の言動というのはどうも異質だと感じていた。あんな振る舞いが自分にできるのかとつくづく疑問だった。というより無理だと思っていた。無理だった。

「お疲れさまです」という奇妙なあいさつ。いや、それはまだいい。それくらいは口に出せる。けれども、電話口でとても申し訳なさそうな高い声で「お世話になっております」。この時点でちょっと「うっ」とくる。さらには対面にて何度もお辞儀をしつつ、笑顔を表情筋で作り出しつつの「この度は」「させていただきます」、そして「お待ちしておりました」などなど。ここまで来るともはや手に負えない。

正しい言葉、尊敬語や謙譲語などが分からないという問題ではない。むしろそれは分かる。ただ、そういう振る舞いがいまひとつできない。下手にやろうとすると、ヘタクソな演技をしているような気分になる。というより、そもそもどもったり赤面したりでろくにしゃべれない。

むかしからとても不思議なのだ。どうしてみんな、新しい環境に入ると、すぐに新しい言葉を覚えられるのか。高校に入れば入ったで、高校生らしい語彙を気づかぬうちにマスターして使いこなす。「キモい」と言えるようになるまで、私は10年かかった。「キショい」はいまだにボキャブラリーの中にはない。「オナチュウ」は使ったことがないし、何ならこれは「オナニー中毒」のことだと思って、耳にするたび赤面していたものである。時期は飛ぶが、院で論文を書くときも、いまひとつ学者言葉に慣れることができなかった。

このままたぶん、私という言葉をしゃべる存在は、どこの言葉の重力圏にも捕われぬまま、暗黒の無重力をさまよい飛んで、ただただふらふら、あちらへ近寄りこちらへ近寄り、狼狽しながら進んでいって、だけどもやっぱりどこにもとまらず、伴う仲間もないままで、この細いフィラメントが燃え尽きるまで、音もなく衝撃もなく、等速の蛇行を続けてゆくのでしょう。

さようなら。

2015年9月28日月曜日

15年ほど前の少年犯罪

少年少女の自殺や他殺、そんな事件が世間を騒がせているようだ。

ようだ、というのはよく知らないから。私自身はその手のニュースをほとんど見ない。テレビはないから映像ではもちろん見ないし、ニュースサイトでもたいてい見出し程度しか目にしない。けれど、その手の話題がぽつぽつ盛り上がってるのは分かる。

なぜだろうか。世間というのは少年の事件が大好きだ。少年がいじめられて殺された、少女が飛び降り自殺した、そんなお話がクローズアップされて、現場の写真入りで週刊誌やネットニュースに書き立てられる。おっさんやおばさんだったら、殺されようが自殺しようがニュースにはならない。たぶん、まだ若い、少年少女の生き死に、あるいはトラブルだの悲劇だのに、人は興味を抱くのだろう。それだから報道も大きくなって、実際数は増えてないのに増えただの相次いでるだの言われるのだろう。

だが思い返すに、むかしの方がひどかった。

ここ数ヶ月、あるいは一年くらい、どうも少年犯罪が増えてるような印象があるみたいだが、ちょうど三十路の私が思い返すに、十五年ほど前は桁違いに少年犯罪が多かった。それはもう悪夢的と言っていいほどのものだった。

もっとも有名なのはサカキバラの事件。あんまり詳細は覚えてないし思い出したくもないが、凄惨な事件だった。世の中全体が震撼した。そして象徴的で、個人的にも印象深いのはバスジャック。私と同年代、十七歳くらいの少年が刃物を持って深夜バスを乗っ取った。おまけに、バスジャックは何度かあった。記憶の中では、ほぼ毎月起こっていたような気がする。マンスリー・バスジャックだった。「今回は路線バスをやったんだってよ」「凶器は小型のチェーンソーだったっていうぜ」「女子高生が制服姿で高速バスをジャックしたらしい。しかも数人でだ!」「なんとまあ、中学生が犯人とは。受験勉強にうんざりしてストレス発散したかったなんてのたまってんだとさ!」「一台のバスにバスジャック少年が三人も乗り合わせてて、結局そいつらの中でだれが主導権握るかで大もめ。最後は運転手が仲裁して仲直りしたんだと」とまあ、そんな会話がそこかしこで交わされるほどだった。

あの頃はひどかったものだ。新興宗教団体は真っ白の衣服に身を包み、集団で伊勢丹をおとずれ、かたっぱしから金品を奪って行った。気に食わない新聞記者らはみんなブルドーザーで谷底へ突き落とされたものだった。猟奇殺人も星の数ほどあり、そのうち二割は芸術家気取り。まるでそれが最先端のアートだと言わんばかりの不遜さであった。社会の方もいまよりずっと軽薄で、逃げ回る少年詐欺師をルパン三世の実写版(しかもとびきり若い)みたいに祭り上げ、いまはここに潜んでるらしいだの、どこそこで少女と知り合って一発ヤッたらしいだの、どこのブランドのシャツを着てただの、そんなアイドルじみた扱いをしていたものだ。

ちょっと大袈裟に書いてみたが、昔はそんな感じだった。

今はとても平和である。

2015年9月21日月曜日

辞職願

誠心誠意、心の底から、仕事を辞めたいと思っている。

何度かこのブログにも書いたが、つくづく仕事がうまくいかない。当初から、自分にサラリーマンなど務まるのかという疑念はあったが、その疑念は半年という醸成期間をへて確信に変わった。無理だ。

けれど、そう思い始めてすでに一ヶ月以上が経過している。もっと言えば、上司に辞意を伝えようと決心してからも二週間以上が過ぎ去っている。さて、その二週間とはどんなものだったか。

昼、出勤時間が近くなるといやいやワイシャツに袖を通す。一度も洗ったことのないウォッシャブルのズボンをはく。ホームセンターにて千円で買った腕時計を装着。いざドアを開けて仕事場へ。そして、待ち受ける上司と顔を合わせていつものあいさつ。「お疲れ様です」。さあ、ここで言え。ここで言うんだ。私は自分で自分を鼓舞する。それこそ思春期の少年が片想いの少女へ愛を告白するかのような胸の高鳴り、緊張が走る。が、結果はいつも同じだ。何も言えず、その日の業務がはじまる。

いやいや、チャンスはまだだ。まだ終わっちゃいない。仕事終わり、私の中のもうひとりの私がささやく。ここで言え。上司が帰る前に言え。ふたたび高まる緊張。口の中が乾く。平和堂で買ったボトルタイプのコーヒーでのどを潤す。再度奮起。だが、結果はまたしても同じ。「お疲れ様でした」。その日の業務が終わり、私は夜の道をヘッドライトに照らされて帰る。

家に帰り着くといつも思う。このままじゃだめだ。こんなことを繰り返していたら一生仕事を辞められない。下手すりゃ定年退職しちまうぜ。よくてもリストラの対象だ。いやいや、おれは契約社員だから「次年度の契約はありません」てオチかな。とにかく、無気力なまま会社員生活がつづくばかりだ。

そんな内省を繰り返した結果、昨夜、とうとう妙案を閃いた。問題は、口頭にて伝えられなかったことなのだ。だったら書面で、文章で伝えればいいじゃないか。そもそもおれは口下手の文弁慶だろ? な、だったらメール送ればいいんだよ。

なるほど。もうひとりの私に説得された私はだれもいなくなった仕事場でひとりメールソフトを立ち上げ、「辞職願」なる件名のメールを書いた。「もう無理っす」で済む内容を、そこそこ社会人的な文章に仕立て上げ、宛先欄に上司のアドレスを入力して「送信」。このボタンを押すには数分間の躊躇があり、内なる世間から「そんなかんたんに仕事を辞めていいのか」「親御さんががっかりするぞ」「三年は辛抱しろ」等々のお叱りを頂いたが、それも強引にねじ伏せてクリック。私はいつもより軽い足取りで夜道を帰った。

辞職の意志表示というものをメールで送るのが社会人としていいのかどうか、マナーに適っているのかどうかは知らない。あくまで口頭で、あるいは相談というかたちで話をしておくべきだったかもしれない。けれど、ここに至っては致し方ないと思っている。なんせ、このままでは辞めたいと言うに言えぬまま、正社員になり、出世し、部長になり、定年退職して悠々自適に老後生活に突入してしまうおそれすらあるのだ。

あのメールを出して帰宅し、今日は日曜、明日も祝日。もう、このままとんずらしたいものだ。

2015年9月3日木曜日

繁忙期終了

前回このブログを更新したあと、私の職場は繁忙期に突入した。一年でもっとも長時間労働となる一ヶ月だった。私は下っ端でやや難のある男なので、他のメンバーほど主戦力として酷使はされなかったが、それでも忙しい一ヶ月だった。

が、それも終わった。いまは、三連休の真ん中。部屋をきれいに片付け、就職以来遠のいていた自炊にふたたび着手。きのう今日と、野菜炒めやらやきそばなどを作っている。さらには長めの本の読書。前々から読もうと思っていたガルシア・マルケスの『百年の孤独』をじっくりと読んでいる。なんという優雅な日々か。

おまけに、ショートショートというものまで初めて書き、講談社に送ったりもしている。料理、読書、そして創作。こんな生活が死ぬまで続いたらどんなにいいだろうと思っている。それこそ、百年間孤独でも構わない気がする。

就職して半年、一応は働いてきたが、そろそろ気づいて来た。普通の会社員としてやっていくのはどうも無理だ。ということで、このごろはどうやって会社員以外の生き方をしていくか考えている。

2015年7月25日土曜日

地元へ帰ろう

現在、私は六連休のまっただ中にいる。

まだお盆でもないのに六連休。それはなかなか、一般の会社員としては恵まれているだろう。けれど、残すところその連休もあと二日で、そのあとは連日の十一時間勤務が待っていると思うと、浮かれた気分も冷めていくというもの。

三十路にして就職し、もうすぐ五ヶ月。まるで仕事はうまくいかず、みそっかす的なポジションに収まっているのになんだけれど、正直すでに、仕事に飽きてきている。もうそろそろいいんじゃないか、という気持ちが心を染め上げている。

よく、新卒で就職した人の三年離職率というのが問題になる。三年以内に辞める大卒の若者が三割もいてけしからん、というのである。だが、私から見れば、一年二年続けばもはや尊敬の対象だ。むしろ、七割が三年以上続けていることに驚きを禁じ得ない。都市伝説なんじゃないかとすら思う。

仕事がうまくいかない。それはこのブルーの大きな原因のひとつでもあるのだが、ひとり暮らしにかかる経済的なコストというのも大きい。私は現在、月給を手取りで20万、ないし、時間外手当などがあるときは21万円もらっているのだが、それでも経済的に余裕があるとは言いがたい。学生の頃は、月に20万もあったら濡れ手に粟だと思っていたのだが、実際にその月給で暮らしてみるとカツカツである。財布に穴が空いているのかと疑ってしまうほどに。

そんな中、遠く北関東に住む母親が、息子の私を心配してか、一通のメールを送ってきた。そこにはこう記されていた。

「役場で職員募集してるよ」

私は可及的すみやかにマックをスリープから目覚めさせると、地元町役場のホームページにアクセスした。そして、職員募集のリンクをクリック。年齢制限を確かめる。目に飛び込んだのは「昭和57年生まれから」という文字。瞬間、歓喜。

目下、志望動機を練り上げている。

2015年7月2日木曜日

ワナビの詩、あるいは新人賞が終わるという問題

教えてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか
山は死にますか
風はどうですか
新人賞もですか
教えてください


とまあ、問う必要もなく、答えは分かっております。新人賞は、終わるのです。

先日、日本ラブストーリー&エンターテインメント大賞のホームページを確認したところ、赤くでかでかとしたフォントでこう記されておりました。

「※現在のところ、第11回は募集しておりません。」

何ということでしょう。今年こそはこの賞に応募しようと思っていたのに、突然のこの宣言。そして、おそらくは終了という宣言。

以前にもこんなことがありました。新潮エンターテインメント大賞に応募しようと思っていたら、何の告知もなく自然消滅していたり、日本ファンタジーノベル大賞に応募しようと意気込んでいたら、やはりかなり期日が迫ってから終了宣言が出たり、新人賞というのは、突然にして終わるものです。

にしても、ラブタメが終わるとは……。去年、選考委員を入れ替え、賞の名前もそれまでの「日本ラブストーリー大賞」から「日本ラブストーリー&エンターテインメント大賞」に改め、コンセプトも変えての出直しをしたというのに、「ラブタメ」という略称も定着しないままでの募集停止。おまけに、この頃はここから出た『響け! ユーフォニアム』がアニメ化して話題になっておるというのに。いったいなぜなのでしょうか。

現在、まだまだ新人賞はたくさんありますが、こうして大きな歴史ある賞が募集停止——おそらくは事実上の廃止——となってみると、うかうかしていられないと感じます。出したいと思う賞があれば、来年再来年などと言ってないで、すぐに出すべきです。


私は時折苦しみについて考えます
ワナビが等しく抱いた悲しみについて
書けない苦しみと 嗤われる悲しみと
間に合わぬ苦しみと 一次落ちの悲しみと
いまの自分と

2015年6月26日金曜日

「好きな小説家は○○です」

一ヶ月ぶりの更新となりますが、みなさまお元気でしょうか。女優志望の女性からメールが来てテンション上がり倒した挙げ句、出会い系のスパムだと分かってげんなりしたりしていませんか? 私は仕事を辞めるかどうか日々煩悶し、げんなりしているところです。

けれども、そんな日々にも楽しみがある。それが読書です。小説です。

現実逃避。そう言われてしまえば否定もできないのですが、やはり物語の世界というのはおもしろい。この頃は厚めの海外文学に興味の矛先が向かい、会社から合法的に奪取した金、いわゆる給料をつぎ込んでは購入し、読んでいます。

目下、読み進めているのはトマス・ピンチョン『V.』という作品。何だかよく分からない、暗号みたいなタイトルの小説ですが、かなりおもしろい。登場人物が多く、しかもあまり説明もなく出てくるため、だれが何をしてるのか分かりにくいという難点もありますが、奇想天外な発想とハードボイルドな描写によって編み込まれたすばらしい作品です。

さて、前置きが長くなりましたが、今回書きたいのは、好きな作家として挙げるとかっこいい作家、そうでない作家、というものです。もちろん、だれを好きでもきらいでも個人の好みですから、別にいいのですが、私はよく、「この作家を好きだというとかっこいいよな」とか、「この作家が好きだというとミーハーっぽい」などと、よく考えてしまいます。

トマス・ピンチョンの作品に手を出したのも、自分の心の内奥を探るならば、それは、だれかに「最近は何を読んでるの?」と聞かれたとき、「最近は、ピンチョンの『V.』だね」と言いたいがため。そう言って、聞いてきた女の子にかっこつけたいからに他なりません。微妙に他の人が知ってるか知ってないか、その境あたりの名前を出すと、何となくかっこいい気がします。

こうした観点で考えると、世の中のすべての作家は、好きな作家だと言うとかっこつけれる人と、そうでない人に分類できます。できるはずです。

かっこいいのは、今挙げたピンチョンに加え、たとえばイタロ・カルヴィーノ。「ヴィーノ」のあたりがイタリアっぽく、通らしさを醸し出していていい。英語名でないところがいい。あるいは、マリオ・バルガス=リョサ。これも、南米のマイナー感が出ていていい。ノーベル賞作家ではあるけど日本での知名度は今ひとつのため、通好みの感じがします。「リョサ氏の作品では……」なんて切り口で話し始めれば、目の前の文学少女はもう私にメロメロでしょう。

一方、かっこよさげに見えて、実はミーハーなんじゃないかと思われてしまう作家もある。この地雷には気をつけなければいけない。たとえば、カズオ・イシグロ。この頃、頻繁に名前を見かけるので、どうも名前を挙げても通っぽい感じが出ません。あるいはカフカ、ドストエフスキー、ガルシア・マルケスといった人々も、ちょっとしたブームのような感じになったので、どうも玄人ぶるには向いていない。目の前の文学少女にも、(あ、こいつニワカだな)と思われてしまいます。

まあ、全部偏見だし、読書で通ぶってなびく女性など存在しないと思いますが。

2015年5月24日日曜日

社会人として三ヶ月

たいへんお久しぶりでございます。清水です。

ここまで更新が滞りますと、もうこのままネットの海の藻くずと消えそうな勢いですが、いえいえ、ご心配には及びません。当ブログの唯一の長所は、どれだけ間が空こうとも消滅はしない、というところでございます。

ここのところ、記事は出さなかったものの、アクセスはむしろやや増加しております。すべては、更新が途絶える前に書いておいた、迷惑メールに関する記事のおかげ。清水優菜と名乗る自称女優のたまごとの一連のやりとりを書いておいたことで、同じようにカモ候補となった方々からのアクセスを稼いでおります。ともすれば有料サイトに誘導され、金銭的被害に遭う可能性もあるわけで、それを未然に防ぐ一助となっているとすれば、嬉しいことです。

さて、私自身の状況はと言えば、ほぼニートの状態から脱し、3月から職を得て働いております。一応、どんな職種かは伏せておきますが、まあ、とにかくうまくいかないの何の。

まずは研修からはじまり、そして実際に週五フルタイムで働いておるわけなんですが、嘘かというくらいうまくいかない。「最初はみんなそんなもんさ」というレベルをはるかに下回る不活躍ぶり。こうなってくると、給料はもらっているものの、臑を嚙る相手が親から会社に変わっただけ、という気にもなって参ります。

「三ヶ月がまんすれば、何 か見えてくるよ」

母親は、三十路にして就職した私に言いました。自分もそうだった、と回顧しつつ。けれど、そう言われたのが三ヶ月前でございます。予告された期間がまんして、たしかに何かが見えてきましたが、その見えてきた何かというのは、解雇の二文字。

次にブログを更新するときには、無職になっているかもしれません。

2015年2月26日木曜日

「伝わらない」ことの面白さ

もうここ三ヶ月ほど、実生活の方で劇的な変化が生じており、ワナビ活動の方は開店休業状態になっているのですが、それでもときどき創作に関してはつらつらと考えておりまして、この頃の自分のテーマは「伝わらない」ことの面白さです。

コミュニケーションというものについて、ここ数年かまびすしく議論されています。よく語られる文脈は、就職活動におけるコミュニケーション能力、通称コミュ力の大切さ、です。どこかの機関が調査したら、会社が人材採用のときにもっとも重視するのはコミュ力であった。そんな記事をネットで見かけたりします。

そんな具合に、コミュニケーションに関して語られるとき、いつも主張されるのはコミュ力の大切さであり、伝えることの重要さです。コミュニケーションは十全に機能することがよいことで、そのための技術をあげようというのが巷間語られるものであります。たしかに、実生活ではそうでしょう。

けれども、こと創作やエンターテイメントについて考える場合、事情がちがってきます。この頃よく思うのです。

コミュニケーションは、伝わらない方が面白い。

思考や感情、論理や価値観、そういったものが十全に伝わらない状況の方が、私は好ましいと思います。社会生活上はこまったことになるでしょうが、面白いか面白くないか、ドラマチックかそうでないか、そういう観点で見れば、伝わらない方がいい。

たとえば小説における人物同士の会話でも、お互いをわかりあっていて、何を言っても通じ合う場合というのはまったく面白くない。そこにはドラマが産まれません。ドラマチックになるのは、そのやり取りに誤解があったり、感情的対立が産まれたり、温度差があったりする場合です。

現在、私は小谷野敦の『悲望』という小説を再読しているのですが、この作品でもやっぱり伝わらないからこそ面白さが産まれている。主人公の大学院生の青年は、院の後輩の女の子に想いをよせ、やがてストーカー化していくのですが、熱烈な想いが相手に届かず、手紙を出しても気持ち悪がられ、やがては会話すらまともにできなくなっていくからこそ面白いのです。もし想いが相手に伝わって、そのままお付き合いすることになったり、あるいはそこまで行かずとも、面と向かってきちんと対話できる関係が整ってしまったら、この物語は微塵も面白くないでしょう。

物語には葛藤が不可欠というのはストーリーテリングについてよく言われることです。そして、コミュニケーションの不全というのは、葛藤を生み出す非常に便利な手段です。したがって、物語には、「伝わらない」ことの面白さが不可欠だと思います。

今後もしばらく、伝わらないことがいかに面白いか、物語にとって重要か、そんなことを考えていきたいと思います。

2015年2月24日火曜日

続・清水優菜にご用心!

おととい、突如送られて来た間違いメール。東京で女優をめざしているというその子は、送った相手が見ず知らずの人間であるとわかったあとも、なぜかメル友になろうという誘いをかけてきた。が、書かれていた「清水優菜」という名前でググッたところ、それはいわゆる出会い系のサクラであったことが判明したのだった。

以上、前回までのあらすじ。

さて、そのあと私は考えた。正体がわかったので、これでもう本気で相手をすることはしないし、まして金を取られるようなことにはなりようがない。が、すでに返信は何度もしてしまっている。つまり、自分のメアドが使用中のアクティブなものだということは伝わってしまったのだ。ということは、今後も優菜ちゃんからしつこくメールが来る可能性もあるし、何より、メアドを業者間で回されてしまう危惧がある。

そうなったら厄介である。他のサイトからも迷惑メールが大量に届くかもしれない。どうしたものかと悩んでいると、昨日の夜に新たなメールが届いた。

件名:迷惑でしたか……
急にメル友になりませんかなんておかしいですよね(汗)
でもアドレス間違いでメール送れることなんてあるんですね。ちょっと驚いてます(汗) 
ちなみにごっちんとは知り合いですか? アセアセ
「汗が多いな!」というツッコミはさておき、返事してないのにまた送られて来た。これは、ひょっとしたらまだまだ追撃を続けるつもりかもしれない。厄介である。

内容については、最初の数通より若干雑になっている感はある。二段落目で、まだなお「運命」感を醸し出そうという健気さは好印象だけれど、なにせ最後の文がひどい。ごっちんというのはもともと優菜ちゃんが本来メールを送ろうとした友達(という設定)なのだけど、そんな人を私が知るはずないのだ。

もしかしたら、このままだとクオリティの低いこの手のメールが連日送られてくる可能性もあり、それも嫌なので、ダメもとでこんな返事を送ってみた。

まっすんさんという人のことは当然存じ上げませんよ(笑)
ところで、この頃仕事が忙しく、返信が遅れて申し訳ありません。
女優を目指されているということで、夢があって素敵ですね。ぼくは裁判所事務官という地味な職業についてしまったので、そんなきらびやかな世界とはまったく無縁の男です……。
メル友の件ですが、彼女がいぶかしがっても面倒なので、ご遠慮させていただきます。が、遠くより、清水さんのご活躍をお祈りしております。では。
ポイントは、司法機関で働いているということと、すでに彼女がいるということ。どっちも嘘だけど。でも、これで優菜ちゃんがどう対応するのかは見物である。こっちが裁判所職員だと申告しても有料サイトに誘導してくるのかどうか、彼女のいる男でもカモにしようとするのかどうか、経過を見ようと思う。

現在、このメールの送信から27時間ほど経過してて、まだ新たな返信はない。このままストップしてくれたらありがたいものだ。


(追記)
さらに丸一日経過したけれど、まだ返信は来ません。どうやら諦めてくれたようです。案外あっさり引き下がってくれました。

2015年2月22日日曜日

清水優菜にご用心!

今朝起きたら、おおよそこんな文面のメールが携帯に届いていた。

件名:おはよう。
もう風邪は大丈夫?(>_<)
この頃は冷え込みがすごいし、お互い体調には気をつけなきゃね(汗)
あと携帯変えたから登録ヨロシク♪
また時間がある時にご飯でも行こう(^ ^)v
はて、と思った。アドレスが変わったから登録よろしく、というメールはときどき友人から送られてくるが、このメールには肝心のもの、送信者の名前がない。いったいだれが送って来たのだろう。しばし、私は考えた。

私が数日来風邪気味だったということを知っていて、かつ、携帯のアドレスを知っている人物と言えばfacebookつながりの人しか考えられない。だから、そこでつながりのある人物のだれかだろう。しかも、「また」「ご飯」に行こうということは、いっしょにご飯を食べたことがある人物。すると、それは3人ほどに絞られる。

ということで、私はこう返信した。

ありがとー! ところであなたは良くんかな? それともみっちゃんかな? はたまた香織ちゃんかな?
ここでは偽名にしておくけど、実際のメールではもちろん本当の名前で書いて送った。この中のだれかではあるだろう、と思ったのだ。そしたら次にこんなメールが返ってきた。

件名:清水です♪
名前入れるの忘れてたよ(笑)
ごっちんだよね!
元気だったかい?
ここで、私の頭はハテナでいっぱいになった。まず、件名にある清水という部分。私も清水なのだけど、あちらも清水さんだという。ここでさっきの3人の候補はみな脳内から消えて、私は新たに清水で脳内検索をかけた。で、ヒットしたのは3人。だが、そのうち2人は私にこんなメールを送ってくるとは考えづらく、あとのひとりともだいぶ疎遠なのでおかしい。

なにより、問題なのは「ごっちん」という部分である。私はごっちんではない。本名をどういじったところで、ごっちんにはならない。そう呼ばれたこともない。この時点で間違いメールであることはほぼ確定。ということで、こんな返事を出した。

ご、ごっちん? ぼくも清水ですよー
相手はどうやら勘違いしてメールを送って来たようなので、それに気づかせてあげようと思った。私はごっちんではない、はやく本当のごっちんさんにメールを送ってあげなさい、という気持ちを込めてメールを送った。そして、次に来たのはこんなメールだ。

件名:ごめんなさい。
携帯のデータが消えてしまったので、友人に聞いてメールしたのですが、間違えてしまったみたいです。
わざわざ返事をしてもらってすみません。
しかも男性と間違えるだなんて……。女性の方ですよね?
やはり間違いメールだったようで、これで一安心である。まあ、たまにはこんなこともあるだろう。ただ一点、最後の「女性の方ですよね?」にはひっかかった。さっきのメールで、私は「ぼく」という一人称を使っていたのだ。なのに、こちらを女性だと思っている……? あきらかに不自然だ。けどこのときは、ちょっと頭の弱い人なのかな、ぐらいに思って、こんな返信を出した。

男ですよ。ぼくもちょうど風邪をひいてたので、間違いだとは気づかなかったです(笑)では。
 無難な文言だったと思う。別に間違いメールだったからといって怒りはしないし、これで一件落着、と思っていた。が、事態はここから急展開を迎えることになる。しばらく間があいたあとに来たのがこのメールだ。

件名:ご迷惑をおかけしました。
でも間違えた先の人がいい人で助かりましたヾ(*・ω・*)o
私は東京で女優をめざしている優菜といいます♪
こんな機会もそうそうないので、よかったらまたメール送ってもいいですか??
(`ω´*)
これを見た私はもう有頂天である。まさか、間違いメールを送って来た人からメル友になろうというお誘いがあるとは。しかも、相手は女優の卵。ということは、若くて美しい女性にちがいない。私はもう即座にオーケーの返事を出そうかと思ったほどだ。

が、一連のやり取りの中で、すでに相手のフルネームは割れている。清水優菜である。 しかも、女優志望。これだけの情報があれば、検索でひっかかる可能性は高い。ただの学生や会社員なら出て来ない可能性が高いが、女優という仕事をめざしているのなら、写真の一枚くらいヒットしてもおかしくない。ある程度の素性もわかるかもしれない。

ということで、私は返事を出すのをがまんし、帰宅してからグーグルの検索で「清水優菜」と打ち込んだ。で、そこで出てきたのが「清水優菜 メール 東京」などといった文字。

おや、これは……。

なにやら不穏な気配を感じつつ、一件目に表示されたページを開いてみると、そこには出会い系の被害を訴える人々の多数の書き込みがあった。そう、これら一連のメールは、出会い系への誘導メールだったのだ。

画面をスクロールしつつ、私の膨らみ切った希望は急激にしぼんでいった。ときめきが、炎天下に置かれた氷のように、みるみる溶けていった。まさか、これが釣りだったとは。しかも、それにけっこう長いこと騙されるとは……。


正直、ググって真実を知るまで、私の頭の中ではかなりのところまで妄想が膨らんでいた。間違いメールがきっかけで頻繁にメール交換するようになるってのはもちろん、ときどきなら東京に行くとき食事をご一緒してもいいかなとか、あるいはそれきっかけで仲良くなって、ゆくゆくはお付き合いを、なんてところまでストーリーは進んでいた。二人の結婚披露宴では、司会者が二人のなれそめを語り、「はじまりは新婦が送った一通の間違いメールでした」なんてところで会場から笑いとちょっとしたどよめきが起こるところまで行っていた。なのに、すべては非情な検索結果のために霧消してしまったわけである。

要するに、けっこう典型的な誘導メールにしばし騙されてしまったのだ。

けれど、いま考えても、返信しないでおくという判断は難しかったと思う。実際、リアルの友達でも、名前を書かずにアドレス変更のメールを送って来るおっちょこちょいはいそうだし、何より今回は風邪の件が私の現状と一致していたため、そこでリアルの知り合いだと思い込んでしまった。もし風邪をひいてなければ、最初から疑いを持って、返信せずに済んだかもしれない。

おまけに、以前たまにご飯を食べててこの頃疎遠な人という心当たりもいたため、またそこでも心のガードが崩されてしまった。間違いだとわかったあとも、たまたま名字が同じだったため、どこか親近感を持ってしまったところもある。そもそも、アドレスが普通にezweb.ne.jpだったので、そこで業者と気づきにくかったということもあった。見事にやられたかたちである。

もっとも、金銭的な被害にあったわけではない。検索結果を見てみた結果、このままメール交換を継続すると、やがて出会い系の有料サイトに誘導され、そこでお金を取られるらしい。そこまでは行かず、実害は被っていないので、それはよかった。

前々から私はこういうたぐいのものには引っかからない自信があったのだけれど、今回は見事に返信してしまった。「風邪治った?」というフックは数十人に一人くらいは身に覚えがあってひっかかりそうになるだろうし、そのあとの返信も実際にこちらからのメールを読んで対応しているので、実に手間がかかっていて巧妙である。

みなさまも、見知らぬアドレスからのメールには十分ご注意を。

2015年2月2日月曜日

転落劇のおもしろさ

成功した人間が転落していく様を見るのは、おもしろいものです。

とりわけここ一年はそんな話題が多い。佐村河内のゴーストライター騒動にはじまり、小保方さんの騒動、それから、やや一般の知名度は下がるものの、与沢翼の転落、百田尚樹の『殉愛』騒動、そして先日書いた岡田斗司夫の炎上——みなおもしろいものばかり。

なぜ、成功した人、著名な人の転落劇はこんなにもおもしろいのか。みな夢中になるのか。その理由としては、嫉妬ということが考えられます。成功者を妬む人間が多くて、みんな自分よりはるか上の人間がだめになるのをメシウマ的に楽しんでるのだ、と。

けど、それは本質を突いていないような気がします。私自身、さすがに百田さんは羨ましいけど、その他の人は別に嫉妬する対象ではないし、羨ましいと思う人ばかりではない。たぶん、妬みがあるから転落するのがおもしろいというわけではない。

それに、成功者が転落するときだけではなく、落伍者が成り上がるさまもまたおもしろいものです。ホームレスだった人が事業で成功したとか、成績が学年最下位だったギャルが慶應に入っただとか聞けば、それもまたおもしろい。

おそらく、本質は急激な変化という部分になるような気がします。上が下へか、下が上へかは問わず、ある人間の状況がいっぺんするというストーリーが楽しいのでしょう。琴線に触れるのでしょう。

世の中全体として、そういう話をもっともっと欲している雰囲気を感じます。これから、どういうことが起こるでしょうか。

2015年1月21日水曜日

岡田斗司夫の愛人騒動

遡ること一年と四ヶ月ほど前、私は「岡田斗司夫がおもしろいよ」という記事を書きました。あれ以来、私はだいぶあの人のニコ生でのトークにはまり、有料チャンネルにも登録し、楽しみに観ていたのですが、その岡田さんが年明けあたりから大スキャンダルを巻き起こしております。

最初は、元愛人と名乗るひとりの女性がfacebookにアップした一枚のプリクラでした。明らかに岡田斗司夫とわかる男と、二十代前半と思しき女性との生々しいキス写真。これについて、岡田さん本人は当初、ツイッターで「当たり前ですけどニセ写真です」と否認していましたが、数日後のニコ生で一転、本物だと認めました。さらに同じ放送の中で、現在9人の愛人がいること(本人は「彼女さん」と称していた)、加えて、多いときには80人の愛人がいたこと、セックスボランティアをしていたことを自ら暴露しました。これにはネット民騒然です。

この暴露があった放送が1月11日だったのですが、その後も続々とあらたな展開が起こります。プリクラを投稿したのとは別の元愛人が、岡田さんからDVを受けたという生々しい告発をツイッターで投稿したり、また、おそらく岡田さんと近しいと思われる人物が愛人リストなるものを流出させたり、炎上の火種が途絶えることがありません。

つい昨日まで、愛人リストの真贋は不明だったのですが、なんと岡田さん本人が公式ブログで自分が書いたものだと認定。これには驚きました。けど、すべてが実態に即した記述だということではなく、留保つき。一部抜粋しましょう。

「ほとんどは私が、仕事で会っただけの女性に対する妄想を書いたものです」
「ほとんどは実在の人物を元にした創作」

つまり、自分で書いたものでまちがいはないけど、一部をのぞいて嘘だよ、とのこと。

けれど、あの生々しい内容がフィクションというのは容易には信じがたい。もしあれが創作なら、もっとおもしろい内容にするでしょうし、あのリストを閲覧していた仲間から、擁護の声があがるはずでしょう。

おそらく岡田さんの意図としては、一部が虚構である可能性を示すことで、名前を出された女性に、関係を否定するための逃げ道を与えたかった、ということではないかと思われます。リストがすべて事実としてしまえば相手女性に迷惑がかかるし、全部虚偽、あるいは第三者による捏造だと言ってしまうと、反証されたときに都合がわるい。ということで、虚実ないまぜであるとしておくのが最善だと判断したのでしょう。

そういえば、ニコ生での放送でも、岡田さんは自ら9股やセックスボランティアの件を暴露したり認めたりしていました。今回も、リストは自分が書いたものと認めた。ここから推測するに、岡田さんの基本戦略は「いずれバレる可能性があるものは先手を打って自分から明かしていく。そしてクリティカルな部分だけは否定する」だと思われます。けれど、それが凶と出るか吉と出るかはまだわかりません。

現在わかっている範囲では、岡田さんは明確に犯罪行為をしたわけではありませんが、しかし知識人としてはもはや尊敬できません。嫌悪感しかありません。著名な作家・業界人であることを利用して小説家・漫画家志望の女性を食いものにするなど、ワナビにとって不倶戴天の敵! もうかつてのようにニコ生を楽しく視聴することもないでしょう。

2015年1月13日火曜日

野性時代フロンティア文学賞 また二次落選

タイトルの通りでございます。去年に引きつづき、今年も二次選考にて落選しました。

一次の通過者がたしか104名。その中から二次を通ったのは23本ほど。今年は去年よりもいくらか自信があり、二次通過までは行けるのではないかと思っていたのですが、残念ながら同じ結果となりました。

これにて、2014年中に応募した作品はすべて落選が確定。世知辛いものです。

さて、こうした状況になって痛感しているのは、「伝える力」が足りない、ということです。かんたんに言ってしまえば、独りよがりの作品づくりに留まっている気がします。これまでおもしろいアイデアを出したり作品の構成を工夫したりなど試行錯誤はしてきましたが、まだまだ他人に伝えるという部分ができていないという自覚があります。

今年ももちろん書きつづけ、投稿を繰り返していく予定ですが、「伝わるように書く」という部分が最大のテーマとなりそうです。

2015年1月11日日曜日

ニートスズキのすすめ

あけましておめでとうございます。本年も当ブログは閑古鳥が鳴くなかで細々とつづけていくつもりでございますので、どうぞよろしくお願い致します。

と、そんな今更なあいさつはさておき、今日はある人物のご紹介。

その人物とは、ニートスズキさん。この人は2003年あたりから主にネット上で活動している有名なニート。今でこそニートといえばphaさんの名が第一にあがるかもしれませんが、スズキさんの方がメディア出演などは早かったと記憶しています。元祖ニートタレントなどと称されることも。

私がこのニートスズキ、略してニースズさんを知ったのはたしか2006年頃でした。ニコニコ動画をよく視聴するようになってから、「日記」というジャンルで顔を出してしゃべっているのを見てハマりました。現在ではHIKAKINや瀬戸さんをはじめ、顔をさらして動画をあげている人は無数にいますが、当時はかなり珍しい存在だったと思います。ニートとして気楽に暮らしつつ、商品の開封動画や食事風景の動画、さらには風呂動画やひげ剃り動画なんてものまでアップされておりました。

そして、現在までニースズさんの動画やブログの活動は継続しており、この年明けあたりからある変化が生じたことで、数年ぶりに彼の動画をよく観るようになりました。その変化とは、FXでの失敗による500万円の借金です!

もともとニースズさんはその名の通りニートだったのですが、数年前にコールセンターなどで働きはじめ、経済的には問題なく暮らしていました。しかし昨年の秋頃、何を思ったのかFXに手を出し、あっという間に400万超の負債を抱えました。さらにその後間もなく、負債を取り戻そうとまたFXに手を染め、ふたたび負けて借金は500万円に。こうして現在、にっちもさっちもいかなくなっているという状況なのです。

かつてはニート時代には小遣いやせどりによってある程度まともに生活していたのに、働きはじめてから経済的困窮にあえぐという、何とも皮肉な状態となっています。

紹介文のつづきは少しあとにするとして、このへんで項目別にニースズさんのプロフィールと活動をご紹介しておきましょう。


【名前】
本名:斉藤智成
渾名:ニートスズキ/昼サイ/さいちゃん

【プロフィール】
住所:東京都江東区の東陽町住宅
年齢:37歳
学歴:中央大学文学部哲学科卒
家族:同居の両親と弟一人
職業:派遣社員
詳しくはニコニコ大百科「ニートスズキとは」を参照のこと

【活動場所】
ニースズさんはさまざまな場所で情報を発信しているのでなかなかフォローし切るのが難しいのですが、目下更新中のものをあげておきます。

ニート鈴木ダイアリー(メインブログ)
ニートスズキのNew借金ブログ(FXで作った借金の返済について記すブログ)
ニートスズキ(@hirusai)ツイッター

多重債務ニースズくん(30分の動画を不定期にアップ)
FC2動画 ニースズ1977(生放送)
アフリカTV チェ・チソンの「星風船は下さい」(生放送)

【作品】
ふかがわばすたーず(自作ライトノベル)
ふかがわばすたーず[Kindle版](上の無料版を修正したもの:102円)
ニートのすすめ[Kindle版](99円)
(Kindle用の書籍は多数出しているが文章のクオリティはかなり低い)


と、ざっとこんな感じです。

ニートスズキさんの動画や文章はエンターテイメントとして体裁を整えようとか伝わるようにしようという気持ちがほとんどないので、人気YouTuberのようなクオリティ、娯楽性はありません。けど、飾るところなく生活の実態を垂れ流すところが変わってておもしろい。すでにネットでの活動歴は10年を越えていますし、おそらく死ぬまでこうした配信はつづけるようなので、今後も観ていきたいと思います。ちなみに、今月の返済総額は恐ろしいことに80万前後となるらしいので、それをどう乗り切るのかも注目です。

……さて、これで終わろうかとも思ったのですが、少し雑感を。

たしかに、ニースズさんはおもしろいのですが、やはりエンタメをつくろうという意識が希薄なため、動画もいいものとそうでないものがあります。おもしろい動画でも、作り込まれたものではなく、あくまで素材としてのおもしろさしかありません。そのナマな感じが長所でもあると思うのですが、ただ、「もししっかり魅せる作品づくりをしていれば人気YouTuberになれたかもしれないのに」というもったいなさは付きまといます。個人的には、だれかプロデュースや演出のできる人がバックアップしてあげればいいのに、と思うのですが。