2015年10月28日水曜日

引きこもり青年の旅立ち

YouTubeでこんな動画を見た。テレビのドキュメンタリーからの転載だ。

ある三十五歳の青年がアパートの一室で一人暮らしをしている。しかし働いていない。いわゆる引きこもり。三年以上ものあいだ、親から仕送りを受け、一人で引きこもっているのだ。そこへある団体の男がカメラ連れで乗り込んでいく。「汚ねぇな」などと言いながらずかずかあがり、「靴のままでいい?」と、文字通り土足で踏み込んでいく。

部屋の住人である青年はなされるがまま。本来、見知らぬ人間が上がり込んで来たら警察を呼んでもいいようなものだが、そんな機転はない様子。身なりだけびしっとした男はため口で言う。「なんで働いてないの?」「このままじゃだめでしょう」などなど。

そこからもよくある展開が続く。引きこもり青年は車で施設へと連行され、そこで待っているのは集団生活。ほかの不登校、引きこもりの若者たちといっしょの生活だ。ともに掃除し、ともに料理し、ともに農作業をし、ともに社会復帰をめざす。センチメンタルな音楽とともに、仲間と笑顔を見せる青年。「ホームヘルパーの資格を取ろうと思います」。おわり。

さてさて、この型通りのストーリーはいかがないものか。戸塚ヨットスクールに代表されるように、どうも不登校や引きこもりの自立支援屋たちは青少年らを集団生活させたがる。それが自立訓練だというのだ。だが待て。集団行動など、だれしも小中学校でやっているではないか。高校でもやっている。それが訓練になり、自立を促す効果があるのなら、中学卒業段階で脱不登校、脱引きこもりしていなければおかしいではないか。今更、三十路の峰を越えてまで同じようなことをさせて、いったい何の効果があろうか。

こうした活動の根底にあるのは、だれしも訓練によってまっとうな社会人になれるというイデオロギーである。思い込みである。迷信である。個々人の特性を無視し、然るべき処置をすれば社会に適応できるはずという根拠のない考えがある。いかがなものだろうか。

人間、性根というのは変わらない。人と関わるのが苦手なら、それはやはり、人と関わることに向いていないのだ。苦手なものは苦手、きらいなものはきらい。それはもう仕方がない。

腹立たしいのは、たまたま社会で是認される価値観を持っているだけで、自らを疑うこともせず、他人にまで威圧的に迫る、あの自立支援屋である。「働け」「親に迷惑をかけるな」「ひとと関わるのはすばらしい」「自立しろ」「ひとは一人では生きていけない」。そういうたぐいのことを言っておけば、だれにも非難されない。何なら、他人に威圧的に迫ってさえ、その暴力は是認される。おそろしいことである。

2015年10月22日木曜日

養ってくれる女性募集!

無職になるまであと九日。休日を除けば、出勤日はあと七日である。いよいよカウントダウントといったところ。

仕事を失えば、もちろん給料は入ってこない。出勤せずとも給料を振り込んでくれればありがたいのだが、そんな幸運は望めない。これまでは毎月二十五日に莫大な富が転がり込んで来たものの、それがゼロになってしまう。

給料がなければ物が買えない。食べ物も生活必需品も買えない。お金を払わずとも物をくれればありがたいのだが、そんな好都合なことは期待できない。したがって、生きていけないことになる。無慈悲な論理である。

そんな事情により、もうすぐ実家に帰ることになるのだが、しかし本日、職場からの帰り道でひとつ、別の選択肢を思いついた。暗い夜空のもと、自転車をこぎながら、頭の上にピカッとあることが閃いた。そのときの閃光はかなりのもので、暗闇に満たされていた周囲の畑、民家、シャッターの下りたクリニック、歩道橋などが一瞬真昼のごとく照らされたほどであった。さてそんな超新星のごときアイデアとは何か。それは、タイトルでネタバレしているが、だれか女性に養ってもらうというものである。

私は知っている。世の中には、孤独に過ごしている女性がたくさんいることを。学校を出、会社に就職し、とりあえず働いてはいるものの、忙しいし寂しいし、心にぽっかり穴の空いた女性がいることを知っている。そのココロのすき間、お埋めしましょう。

「なにを都合のいいこと言ってるの。あんたを養って何になるっていうのよ!」

まあ落ち着いて。振り上げたバッグをおろして、あたたかいココアでも飲みながら、まずは話を聞いて欲しい。

まず、私は掃除が得意だ。整理整頓には自信がある。学生時代、私の部屋を訪れた友人・知人の八割は、私の居室を見て「ホテルのようだ」「モデルルームのようだ」と嘆息していたほどなのだ。忙しくて片付け、掃除、ゴミ捨てがろくにできないというあなたのために、私はいつでも、部屋をきれいにしておくことができる。

第二に、毎日手作りの料理を用意してあげられる。もうすでに十年近く一人暮らしの経験があり、そのうちの大部分、私は食事を自炊でやってきた。ある程度のレパートリーはあるし、経験がない料理にも臆せずチャレンジすることができる。私の開発した餅チーズのお好み焼きは絶品だし、ハンバーグの焼き加減はびっくりドンキーもびっくりの一品である。外食、コンビニ弁当が多いあなたの食生活は、私の存在により一変するだろう。

さらには、いつでも愚痴を聞いてあげることができる。いやな上司にお説教された、同僚のミスを自分のせいにされた、こなし切れない量の仕事を押し付けられた、さまざまな理不尽・不条理に疲れ傷ついたあなたの心の嘆きをいつでも受け止めよう。そして決して批判せず、説教なんてもちろんせず、やさしく肩を抱いて慰めてあげよう。

これだけのメリットがありながら、おそらく、私ひとりを養うコストと言えば、月に三、四万の生活費増といったところ。小食だからさして食費はかからない。ギャンブルもやらない。たばこは吸っているが、ご希望とあればいつでも辞める。

ご応募、お待ちしております。

2015年10月19日月曜日

会社員になって分かったこと

会社員生活、残り二週間。この二週間が、私の意識の中で永遠とも感じられるほど遠く遠く伸びている。先が見えないほど、この二週間という時間は長い。おそらく、過ぎてしまえばあっという間。けれど、あと二週間あると思うと、気が遠くなるほど。

ともあれ、もうすぐ終わりなのは事実。それは私の意識と無意識にも影響を及ぼしており、緊張感が低下気味。おまけにやる気はすっからかん。そうなれば仕事上のミスも増えてきて、このところ週に二回くらい上司に怒られている。温厚な上司のため「雷が落ちる」というのではないが、いやな感じでじわじわ来るので「背中に正体不明の爬虫類を入れられる」といった感覚。

さて、もうすでに退職が見えているため、内心ではサラリーマン生活の総括がはじまっている。詳細なことは退職後にするつもりだが、やや先走って、今回は少し、会社員になって初めて分かったことを記しておきたい。

過去の私から、こんな質問が飛んで来たとしよう。

「どうして会社員の人は、仕事内容についてあんまり具体的なことをしゃべったりネットに書いたりしないんですか」

いい質問だ。学生のきみは授業のことや友達とのことについてあれこれネットに書きまくっているから、その延長で社会人もやればいいと思うのだろう。答えのひとつは、時間がないからだ。学生と違い、会社員は時間がない。週に五日、毎日九時間程度は働いており、家でも仕事関連の用事をせねばならないことがけっこうある。となると、仕事のことを落ち着いて考えたり、ましてそれをおもしろくネットに書くというのは、時間的に無理なのだ。

それから、守秘義務だとか特定されるおそれだとかがある。会社に属していると、さまざまな会社の情報、顧客の情報を目にする。たとえば、私がここに会社のさまざまな数値だとか、こんなクレームがあったとか、こんなオモシロ顧客がいたとか、そういうことを書いたらアウト。たいへん問題になる。だからあまり書けないのだ。もちろん、守秘義務に抵触しないようなことも多いが、会社というのはそれ以外のつまらないことでも、あまり公にして欲しくないものなのだ。私などの社員も、もし同僚や顧客に、このブログが特定されたらどうしようとヒヤヒヤもの。

そんなわけで、なかなか会社員という立場上、ネットで情報を発信することは難しい。辞めたら、ギリギリまで書くけどね。

では第二問。

「ドラマとかで、サラリーマンはいつもパソコンに向かってるイメージがありますが、あれは何をしているんですか」

これは私も多いに疑問だった。忙しい忙しいと言いつつ、たいていテレビの中のサラリーマンというのはデスクでディスプレイとにらめっこをしている。あれは何をしているのか。正解は、私の知る限り、書類作り・報告業務・発注などである。

私も日々、仕事時間にパソコンに向かうことが多いが、エクセルでものの数を打ち込んだり、チラシなどを作成したりしている。あとは、出勤時間だのレポートだのの入力も多い。組織というのは、とにかく何をやるにも報告が必須。200円の交通費をもらうのにも、データを打ち込み、プリントアウトし、ハンコを押し、さらに他二つほどハンコをもらって承認を得るといった手続きが必要になる。それが案外煩わしい。組織を管理しようと思うと、そういうコストが必要になってくるのだ。

「どうしてサラリーマンの人って、仕事終わりによくお酒を飲むんですか」

これは私もまだ分からない。分からないのだが、事実として、お酒好きは多い。学生のころより多い。もうだいぶ薄れたのだろうが、それでもまだ、お酒を飲むこと、しかもたくさん飲むことは美徳だという風潮がある。それがストレス解消にもなっているようだ。昔、「クリノトリガー」というゲームでレイラという原始人の女キャラがいた。強い女原始人というキャラ。そのレイラが、主人公のクロノと酒の飲み比べをするというシーンがあった。その飲み比べでクロノが勝つと、レイラから賞賛されるのである。そこから推察するに、人間は太古より、酒に強いことが美徳という価値観があったようである。その太古からの流れが、現在のサラリーマン部族に受け継がれているのであろう。

さて、そろそろ夜も遅くなってきた。続きはまたいずれ書くことにしよう。

2015年10月17日土曜日

サラリーマンのすごいとこ

就職してもうすぐ八ヶ月、この短い会社員生活のなかでたくさんの驚きがあった。サラリーマンというものに対する発見があった。その中で最大のものはこれである。

サラリーマンは、会社のことを自分のことのように考える。

これがもっとも意外であり、驚きだった。会社員なのだから、たしかに会社には属している。そこに身の置き所がある。けれど、私などからすれば、会社は会社、自分は自分。会社が傾こうが潰れようが、自分が死ぬわけではない。逆に、会社がえらく儲かろうが、そこまで給料が増えるわけでもない。なのに、他の社員たちの振る舞いはどうだろう。まるで会社のことを我がことのように感じ、考えているかのよう。

一月ほど前、あるアンケート結果が出た。いわゆる顧客満足度のような調査結果である。それが、私のところはだいぶよかった。他と比べてなかなか好成績だった。上司と先輩は「よかった」「やった」と喜んでいた。そうして結果の印刷されたプリントから目を上げ、私に尋ねた。「嬉しいですか」と。私は答えた。「ええ」と。

すると、上司と先輩はかわいた笑い声を発した。私の気のない返事に拍子抜けしたかのようだった。それもそのはず、私の「ええ」はイエスの意味からはほど遠く、内心の「どうでもいいっす」というメッセージが気の抜けた二文字ににじみ出ていたのだから。

どうも私は、会社のことを自分のことのようには思えない。会社の目標は会社のもので、私には私の目標がある。それは別個の存在だ。そんな意識が根本にある。もちろん経験の浅さというのも大きな要素。これがあと五年十年と経てば、意識も変わってくるだろう。けど、やはりそこまで組織にアイデンティティーを置くことはなさそうだ。そんな気がする。

会社が儲かったって、一部上場したって、私自身が儲かるわけでなし、有名になるでもなし、あまり関係がないという意識がベースにある。そんな私が傍目で見るに、組織の動向に一喜一憂できるサラリーマンというのはすごいものだと思う。ひょっとしたら、会社員としてまともにやっている人というのは、だいたいこの能力を持っているのかもしれない。それを社会性と呼ぶのかも。だとしたら私は……

どうも、社会不適合者です。

月末、会社辞めます。

2015年10月15日木曜日

「を」入れ言葉よ滅びろ

「を」入れ言葉が気に障る。

いつからか、「を」入れ言葉がはびこるようになった。むかしはほとんどなかった。使い始めたのは政治家らしい。「皆様にご支持を頂いて」「議論をしているところです」「整備をして」「予定をする」「開始をする」などなど、「を」が至る所、はびこるようになった。

元来、こんな「を」どもは要らなかった。なくてよかった。なのに、なぜだか政治家は「を」を好んで使うようになった。それからしばらくし、一般の大人たちも使うようになった。なぜだか、改まった場面であればあるほど、「を」は顔を出すようになった。なくてもいいのに、こいつは二字熟語と見ればどこへでもくっついて出てくるようになった。

先日も、JRの駅で電車を待っているときのこと、駅員はこんなアナウンスをした。「間もなく、貨物列車が通過をいたします」。私は、目の前を横切る貨物列車を眺めながら、それが引き起こす風を浴びながら思った。「通過します、でいいではないか」と。しかし、電車は「通過を」していった。

はなはだしきは、二字熟語以外のものにまで膠着する「を」である。「お願いをいたします」「お詫びを申し上げます」「びっくりを致しております」などなど。最後のものなどほとんどギャグである。内館牧子『カネを積まれても使いたくない日本語』で紹介されていた用例だ。「びっくりを致す」。計算でやっているなら尊敬してしまうほどのセンスである。

とにかくこの「を」入れ言葉がきらいなのだが、なぜかって、この言葉の変化には合理性が欠片もないから。「ら」抜き言葉はよかった。あれはすばらしい。なるべく言葉を短くすると同時に、意味の細分化まで実現していたからだ。「ら」があれば受身と尊敬、「ら」抜きなら可能。この変化は日本語に豊かさをもたらした。ところがどうだ。「を」入れは無用な一文字をあちこちに挿入し、意味には一切の変化をもたらさない。おまけに、「議長を拝命を致しました」のように、目的語の連続という醜悪な現象まで引き起こしたのである。

なぜか分からないが、改まった雰囲気であればあるほど、ひとは言葉を不要にながくしたがる傾向があるようだ。「させていただきたいと思います」のたぐいもそれと同根だろう。そういう言葉がきらいだ。余分な「を」どもよ、滅びろ。

2015年10月12日月曜日

ピンチョンとタランティーノ

以前、トマス・ピンチョンについて軽く書いた。

ピンチョンというのはアメリカの作家だ。現在、たしか八十歳くらい。ポストモダン文学の巨匠だの、ノーベル文学賞候補の常連、はたまた文学の怪物だなどと称されている。寡作ではあるのだが、一作ごとのボリュームが凄まじい。翻訳を上下巻合わせたら8,000円越えなんてのもある。質もそりゃたいそうなもので、発売されてすぐ古典文学並の扱いを受け、学者たちがこぞって研究するとかしないとか。とにかく、現代世界文学の大物だ。

そのピンチョンの著作、『ヴァインランド』というのを読んでいる。彼の作品の中では比較的とっつき易いと言われており、ボリュームも一冊で完結しているのでそれほどではない。が、あくまでそれは「ピンチョン作品としては」の話。他の作家のものと比べれば十分に重厚で長大だ。そのため、五年前にチャレンジしたときは弾き返された。五十ページほどでギブアップし、私は古書店でそいつとさよならしたのだった。

が、あれから時がたち、再び書店にて『ヴァインランド』を購入。今度はすごかった。あっという間に引き込まれていった。同じ本で、大人になってから挫折したものに、こうまで違う印象を抱くとは、正直不思議ですらあった。だが、彼の細部へのこだわり、独特の比喩、しれっとした誇大妄想的な嘘、ダウナー系の愛すべきダメ人間たちの言動が、私の琴線にビンビンと触れてきたのだ。

たとえばこんな描写がある。ある海岸近くの丘の上、元修道院だった館の中に、おかしな女の集団がいる。そこで集団生活を営んでいる。彼女らはくの一なのだ。忍者の秘術を習得し、維持し、さらには料金を取って広めている。あるいは、DLという女がいて、そいつは日本へ渡ってくると、ヤクザとも繋がりのあるアウトサイダーな武術の達人に弟子入りし、さまざまな忍術を会得する。そうして八面六臂の活躍。はたまたとある建物が、明らかにゴジラと思しき怪物に踏みつぶされて全壊したり、空をゆく飛行機に謎の飛行物体が横付けしてパーティーの邪魔をしたり、まさしくパラノイアのような展開が相次ぐ。

さて、今回言いたいのは、ピンチョンがおもしろというだけではない。それは、タランティーノ映画との類似。デビュー作の『V.』を読んだとき、私は「パルプフィクション」を連想した。細部のフェティッシュな、もったいぶったような描写、本筋と関係のない枝分かれ的な展開と登場人物たちの口論、時間軸の行ったりきたり、いくつかの筋の転換と交錯、バイオレンスやエロを淡々と、しばしばコミカルに描く語り口、そんなものが二つには共通していた。

そうして『ヴァインランド』からは、「キル・ビル」に似たものを感じた。というより、これはもう明らかに影響関係がありそうだと思った。上にも書いた、白人の女が日本で武道の訓練を受けるだとか、アメリカから見た奇妙なニッポンを好きなだけ描くだとか、かつて関係のあった男をこんどは倒しに行くだとか。雰囲気や手法だけでなく、モチーフのレベルでもこの二つは似ていた。ネットで軽く検索したところ、タランティーノはピンチョンからの影響について公言はしていないらしいが、偶然似たにしてはできすぎている。

コンテンツというのは、映画にせよ小説にせよ、独立に存在するものではない。ニュートンが「私は巨人の肩に乗っている」と言ったように、創作だって、過去の偉大な作品群のもとになりたっている。明らかなオマージュがあるとかないとかは関係ない。そんな影響関係も意識していけばより作品を深く味わえるだろうし、「取り入れ方」の参考にもなるはずだ。

2015年10月4日日曜日

社会人言葉

就職して八ヶ月目、いまだに社会人として、会社員として、言動がこなれていない。

もともとそんな危惧はあったのだ。学生の頃から、いわゆる社会人の言動というのはどうも異質だと感じていた。あんな振る舞いが自分にできるのかとつくづく疑問だった。というより無理だと思っていた。無理だった。

「お疲れさまです」という奇妙なあいさつ。いや、それはまだいい。それくらいは口に出せる。けれども、電話口でとても申し訳なさそうな高い声で「お世話になっております」。この時点でちょっと「うっ」とくる。さらには対面にて何度もお辞儀をしつつ、笑顔を表情筋で作り出しつつの「この度は」「させていただきます」、そして「お待ちしておりました」などなど。ここまで来るともはや手に負えない。

正しい言葉、尊敬語や謙譲語などが分からないという問題ではない。むしろそれは分かる。ただ、そういう振る舞いがいまひとつできない。下手にやろうとすると、ヘタクソな演技をしているような気分になる。というより、そもそもどもったり赤面したりでろくにしゃべれない。

むかしからとても不思議なのだ。どうしてみんな、新しい環境に入ると、すぐに新しい言葉を覚えられるのか。高校に入れば入ったで、高校生らしい語彙を気づかぬうちにマスターして使いこなす。「キモい」と言えるようになるまで、私は10年かかった。「キショい」はいまだにボキャブラリーの中にはない。「オナチュウ」は使ったことがないし、何ならこれは「オナニー中毒」のことだと思って、耳にするたび赤面していたものである。時期は飛ぶが、院で論文を書くときも、いまひとつ学者言葉に慣れることができなかった。

このままたぶん、私という言葉をしゃべる存在は、どこの言葉の重力圏にも捕われぬまま、暗黒の無重力をさまよい飛んで、ただただふらふら、あちらへ近寄りこちらへ近寄り、狼狽しながら進んでいって、だけどもやっぱりどこにもとまらず、伴う仲間もないままで、この細いフィラメントが燃え尽きるまで、音もなく衝撃もなく、等速の蛇行を続けてゆくのでしょう。

さようなら。