2016年2月21日日曜日

美女について

美女についてよく考える。

と言っても、鼻の下を伸ばしているわけではない。いいなあ、ということではない。むしろ、美女の立場、美女の主観というものに興味がある。

男性側からすれば美女は憧れの対象である。付き合いたいと思うし、キスしたいと思うし、パンツを覗きたいと思うし、耳たぶを舐めたいと思う。これが通常の見方だ。つまり、普通、男性サイドからは、美女というのは対象物であり獲得すべき目標という見方になってしまう。

しかし美女も人間である。主観を持っている。ひとりの人間として、自分が美女であることは、どういう作用をもたらすのだろう。美女にとってみれば、美しいがために、男たちが集まってくることになる。欲望の対象として見られまくる。もちろん、モテるから嬉しいという面もあろうが、あまりに多く好意を持たれると、おそらくウザいだろう。

岡田斗司夫がこう言っていた。「美しいことは能力ではない。なぜならそれは、身体能力や知的能力のように、加減して発動させられないから」。たしかにそうだ。美しいということは、普通に生きていれば隠すことができず、その美しさに付随するものからは、逃げることができない。

美しさは尊ばれる。ちやほやされる。しかしそれは、努力して得たものではない。とすれば美女は、努力してないのにちやほやされることに、何かしらわだかまりを感じるのではなかろうか。美女をこじらせている人も相当数いそうだ。

美しさはいずれ衰える。美女と言えども、よほど群を抜いていなければ、後半生はさして美しくない状態で過ごすことになる。美女として扱われるのは、おおむね十代後半から四十くらいまでの二十年ちょっとだけだろう。そういうリミットがあることは若いうちから感じてるはずで、それが美女の振る舞いにどう影響しているのかも興味深い。

散漫な話になってしまったが、美女というのはおそらく、端から見るほど得なものではなさそうというのが今のところの予想である。

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