2016年2月23日火曜日

無意識のレベルへ潜ること

無意識の領域は大事だなってよく思う。

作家の岩崎夏海氏が、最近のブロマガにこういうことを書いていた。映画というのは、夢や空想でしか見たことのないものを、映像で見せてくれるから面白いのだ、と。私にこの着眼点はなかった。映画と夢をつなげて考えるということはなかった。

しかし言われてみればそうで、たとえば空を飛ぶ映像というのは、もろに夢である。夢では、人間はよく空を飛ぶ。今朝も、私は空を飛んでいた。うろ覚えだが、対戦相手がおり、そいつは計量カップみたいなかたちをしていて、それと私とで、どちらが上へ行けるか散々競い合い、最後は私が雲を突き抜けて勝利を収めた。そういう夢を映像で見せられると面白い。

無意識の代表例は夢だが、ほかにもある。たとえば、破滅的な空想である。何かしら、厳粛な場がぶち壊しになるとか、えらい人に暴言を吐くとか、そういう、ほぼ意識にのぼってこないような悪い意味での空想というのも、物語として描かれると面白いものだ。たとえば筒井康隆の『文学部唯野教授』で、主人公に対して目上の教員が子どもみたいに感情をむき出しにして怒り狂うシーンがある。そういうのは面白い。

クリエイターにとって無意識のレベルに潜ることは必須である。そこには魅力的な題材が山とある。ただしそれは一筋縄ではいかない。意識は、どうしたって無意識と乖離してくるものだ。意識が認めたがらいものは無意識へと抑圧され、認識することが困難になってしまう。乖離が甚だしくなれば、創作どころか実生活にまで悪影響が及ぶ。そこんところを、何とかしなくてはいけない。いろいろな方法を用いて、無意識から、人間にとって面白いものを汲み取らなくてはいけない。

夢をメモしたり、あるいは社会の事象の背後に潜む、普遍的・集団的無意識をひもとくような試みをやっていきたい。

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