2016年4月29日金曜日

塾講師の仕事内容:余暇と研修

私の塾の場合、休日はそこそこ多かった。基本的に平日のうち一日、そして日曜の週休二日制である。祝日もだいたい休みだ。夏になると、一週間程度の連休が二回くらいあったりする。

ただ、前にも書いた通り、授業の準備があるために、休日でも丸々一日遊ぶというのは難しい。いくらかは授業準備に時間を使わねばならない。さらに、苦手教科・分野の復習をしたり、過去問の研究をしたりといったことも必要となる。

夏の連休のだいたい授業準備で潰れる。なにしろ、夏期講習はいちばんの書き入れ時であり、朝9時から夜10時まで授業がある。家には寝に帰るくらいだ。となると、前日に次の日の準備をするというサイクルは無理で、事前にまとめて準備をしておかねばならない。

有給はあるが、使いにくい。担当するクラスの授業はそうそう勝手には休めない。それでも他の講師に代講をお願いして休むという方法もあるが、やはり気を使う。

上に週休二日と書いたが、研修が行われることもある。勤務日の午前中に研修があることもある。しかもけっこう頻繁にあるので、負担は大きい。塾講師と天職を感じ、その道を突き詰めていきたい人にとっては渡りに船であるが。

塾講師の仕事内容:生徒との関係

塾講師という仕事柄、生徒との関係には気を使う。会社側もそこにはシビアだ。

採用当初に注意されたのはSNSの扱いについて。私はFacebookを本名でやっていたため、採用説明のときには人事の者がすでにチェックを入れており、対応を求められた。生徒とSNSで接点を持つのは当然タブーで、その疑いを持たれるのもだめだということであった。担当者はFacebookアカウントそのものを削除して欲しいようだったが、いやだったので、名前を偽名にし、写真も顔写真ではなくして、特定されないようにした。

しかし、生徒や保護者がどこまでネットで講師のことを調べているのかは分からない。私の本名でググると、大学の紀要で発表した論文の情報がヒットするため大学名がばれる。過去に応募した新人賞のことも出てくるため、ワナビだということも発覚しかねない。が、これらがバレていると感じたことはない。そこまで興味を持たれなかったということか。

生徒に対しては、明かしていい個人情報とそうでないものがある。これについては正式にレクチャーがあったわけではないが、たとえば出身校は言わないことになっていたようだ。このへん、家庭教師や予備校の講師とはぜんぜん違う。とはいえ、これにについては生徒から聞かれたことは一回しかない。聞いてはいけないという意識があるのか、あるいはそもそも興味がないのかはよく分からなかった。

そして、年齢も明かしてはいけないことになっていた。だがなぜか、生徒というのは先生の年齢をやたら気にする。アホほど聞いてくる。「先生、何歳なの?」と百回くらい聞かれたかもしれない。なぜそんなに年齢が気になるのかは謎である。あと、なぜ言ってはいけないのかも謎である。

生徒といちばん親しく接する機会というのは、塾講師の場合、質問対応だ。そのときに勉強の仕方であったり進路についてであったり、相談に乗ることもある。雑談もする。ただ気になったのは、質問に来る生徒が非常に偏っているというところ。同じ月謝を払っていても、よく質問に来る生徒の場合は個別指導に匹敵する手厚いサービスを受けていることになるし、来ない生徒はその分損をしているとも考えられる。個人のやる気に比例して先生も応えるのだから、これが理不尽とは言えないが、保護者の立場で考えた場合、通わせがいがあるのは前者のような子であろう。

塾は地域に密着した商売なので、塾を出ても、町で生徒や保護者と出くわすことがある。住んでいる場所もなるべく生徒には知られない方が望ましいので、そういうときは気づかれずに逃げるようにする。こういうことが厭わしい人は、勤務場所から数駅離れたところに住んでいる。

問題のある生徒、荒れたクラスというものもある。塾はいくもいかないも任意なのだから、いやなら生徒の方から辞めていくだろうとも思うが、実際はそうでもなく、親に言われてイヤイヤ通塾している生徒もおり、勉強する気などサラサラないという生徒もいる。クラスが荒れるとけっこうひどいことになる。子供というのは残酷なもので、それが集団で敵意を向けてきて罵詈雑言をぶつけられると精神的に堪える。それでも塾の場合はそのあいだだけ耐えればいいわけだが、学校の先生は担任のクラスが荒れたりしたらまいってしまうだろう。教師の休職が多いというのも理解できる。

塾講師の仕事内容:役職と給料

今回は仕事の内容というより、組織の構成について。

塾といっても個別指導の部門もあれば、英会話の部門もあったり、幼児教育をしているところもある。私の場合は中核である小中学生の集団授業を行う部門にいたため、そこの話を。

まずはヒラの塾講師がいる。これまで書いたような仕事を行う、普通の塾講師だ。ここで数年、はやい人ならば三年目くらいで校長になったりする。校長は、小さい校舎だと事務員を含め三人の部下をしたがえる管理職ということになる。何が校長の業務になるのかは校舎によっても若干違うだろうが、アルバイトの採用・時間割の作成などが加わる。私の塾の場合は、校長になっても授業の受け持ちが減るということはなかった。むしろ、私が担当を外されたコマに校長が入っていて実にたいへんそうであった。

校長の上となると、いくつかの校舎をまとめたブロックの長ということになる。これはどこかの校舎の校長が兼務することが多かった。ときどき各校舎をまわったり、研修のときにまとめ役になったりしていたが、特有の仕事内容というのはよく分からない。

その上は、都道府県単位の長、エリア長となる。ひとつの県の集客状況やクレームの発生についてメールが送られてくるのだが、これはエリア長が作成していた。通常、ヒラの塾講師はエリア長と机をならべて仕事をするということはないが、私の場合は、私が担当を外されたコマをエリア長が埋めていたため、日常的に接することとなった。

その上は、小中学生対象の部門を総括する部長ということになる。部長にまでなると普通、授業を受け持つことはあまりないようだが、私が担当を外された別の授業を部長が埋めていたため、毎週私の校舎で授業を行っていた。自分で言うのもなんだが、ペーペーの尻拭いもたいへんである。

さて、給料だが、中途入社一年目、契約社員の私で約22万円であった。ここから雇用保険・健康保険・所得税などが引かれ、そして残業代が付き、平均的な手取りが19万円といったところ。さほど高くもないが、低くもない。夏期講習で時間外手当がたくさんついて、マックスが24万円であった。

校長になるとその分の手当が出るらしいが、これはさしたる額ではなかったらしい。一応、校長になると管理職の扱いとなり、残業代は出ない。休日出勤でもほとんど出ない。夏期講習になると朝9時から夜10時までの勤務が毎日続いたりするのだが、私が通常の月より5万アップしたのに比べ、校長が「あれだけ働いたのに1万円しか違わない」とため息をついていた。

ちなみに、校長はパソコンと社内システムのパスワードを付箋に書いてデスクに貼っていたため、その給与明細を盗み見ることもできたのだが、万一閲覧履歴が残る仕様になっていたらいやだなと思って見なかった。どうせなら見ておけばよかったと思っている。

その上だが、エリア長はボロボロの軽自動車に乗っていたし、給料はさほど高くなかったと思う。高給取りになりたいなら、そもそも塾講師はだめである。入社当初、校長からはよく、ここにいてもたいして稼げないという話をされた。部長にまでなればある程度の収入があったかもしれないが、そもそも部長にまでなれるのは百人に一人とかなので、期待は持てない。

なかには、数年から十数年経験を積んで、独立する人もいる。私のいた塾のすぐ近くにも、個人で塾を立ち上げた人がいた。まだできて一年くらいだったはずだが、夏の終わりには「テナント募集」になっていた。あっさり潰れたのだ。もともと組織にいるあいだは優秀な講師だったに違いないが、そこを離れて自分でやっていくのは難しいのだろう。

塾講師の仕事内容:教材と掲示

学習塾ではアホほど教材を配る。

私が中学生のころ通っていた塾は一つも教材など配らず、テストもなく、授業もなく、ただ質問だけできる自習室みたいな感じだったので、この教材の充実っぷりには当初おどろかされた。

中学生であれば各教科一冊、多ければ三冊ほど配る。春期講習、夏期講習、冬期講習となれば、そのたびにまた別の教材を配る。この準備もなかなかめんどうである。予め生徒の数だけ発注しておき、それを生徒ごとにまとめて、配布できるよう準備しておく。でかいダンボールにぎっしり教材が詰まって届くので、それをあっちへやりこっちへやり、腕力も必要になる。腰痛持ちにはしんどいだろう。

塾の中にはさまざまな掲示物がある。たとえば、中学や高校のポスター。いろんな学校から生徒募集や体験授業のチラシ、ポスターなどが送られてくるし、直接持参してくる場合もあって、それを壁に貼っていく。あるいは、ここを巣立ってもまた高等部で塾に通ってくれるよう、そのポスターも貼ったりする。他にはテストのランキング表・合格実績・講師紹介などもある。これらをワードやエクセルを使って作成するのも業務のうちである。

塾講師の仕事内容:授業と準備と質問対応

塾講師はどのくらい授業を受け持っているのか。ざっくり言うと、社員の場合はだいたい一日二コマから三コマ程度である。小学生のクラスを一コマ、中学生のクラスを二コマというのが標準的だった。

授業は決められた時間で行うので、延長によって時間が延びるということはない。しかし問題はその準備である。これに時間がかかる。三年目以降の慣れた人になればいいが、最初の一、二年は毎回毎回ゼロから板書案を用意したり授業展開を考えておかねばならないためたいへんである。

一時間の授業につき一時間から二時間の準備をするとなれば、実質的な労働時間は増える。しかし、それはすべて自宅でやっておかなければならない。そして、その時間に対しては給料が出ない。塾講師が他の仕事に比べて「割に合わない」と感じるとすればこの点だろう。

塾は、最初の記事にも書いたとおり、始業が午後一時過ぎである。だから、午前中の時間は自由に使えると思う。会社のあるパーティーで少し話をした先輩は、午前中が自由だから、そこで博士論文を書こうと思っていたと語っていた。が、その目論みは挫折したようである。かくいう私も、午前中に小説を書こうと思っていたが、就職してすぐ、それは無理だと悟った。少なくとも最初の一、二年は自宅での授業準備によってプライベートな時間の多くが削られてしまうからだ。

では、大学教員のように、ペーペーのうちに授業ノートさえ完成させてしまえば、あとあとそれを使い回しできるかと言うとそうでもない。毎年担当になる学年・教科が同じとは限らないし、当然、クラスによって進度も変わってくる。目の前の生徒に合わせて授業をするのが学習塾のメリットなのだから、それを無視して機械的に進めることはできないのだ。

というわけで、授業そのものにかかる時間は少なくても、準備にかなり手間取る。

内容的なことについても少し書くと、塾講師というのは、生徒に「聞かせる」のが大事である。そのためにさまざまなテクニックを習得しなくてはならない。基本、塾の生徒というのは話を聞かない。レベルの低いクラスほどそうである。大学の講義のようなものを想像していると痛い目を見る。見た。


さて、集団授業ばかりでなく、個別に質問に来る生徒への対応も大事な仕事のひとつ。とりわけ高校受験を控えた三年生などは毎日のように質問に来る。

たとえばチラシを折っていても、テストの採点をしていても、質問に来たら答える。時間を取られるので忙しいときは厄介だが、基本的には、生徒と近い距離で接する時間なので楽しいことが多いし、貴重な機会である。このときの質問によって、授業をどれくらい理解しているかとか、そういう感覚を得ることもできる。

私の校舎の場合は、いつでも質問していいことになっており、生徒が事務室に質問を持ってきたら必ず答えることになっていた。だが、これだとやはり業務に支障が出る場合もあるため、校舎によっては質問時間を決めたり、予約制にしていたりもしたようだ。どういうやり方がいいかは校舎によって違うだろう。

今振り返ってみると、塾講師をしていていちばん楽しかったのはこの質問対応であった。集団を相手にするのは苦手だ。

塾講師の仕事内容:採点と保護者対応

塾ではいやというほどテストをする。この採点は、当然のこと、塾講師の仕事である。

正直、これほどテストをするというのは意外だった。頻繁に行うミニテストのようなものから、記述式の本格的なやつなどいろいろ。アルバイトの先生に手伝ってもらうこともよくあったが、それでも100人以上の生徒の答案を、基本、三人体制の講師でさばくのだから、そりゃあ楽ではない。

ただ、私はまだよかった。理系科目担当だからだ。数学と理科にも記述はあるが、その解答の振れ幅はたかが知れている。問題は国語と社会で、私もいくらか手伝ったのだが、採点の難しさがえげつない。本部が用意した採点基準というものがあるのだが、答案と照らし合わせて判断するのは難儀である。採点基準自体がどうなんだ、という場合もあって、そういうときはバツをつけるのが躊躇われたりする。

採点が終わったらその点数をパソコンで入力し、生徒ごとにまとめる。そして次の授業時に返却。このへんの手間もけっこうかかる。

話は変わるが、塾講師をしてて普段接するのはもちろん塾に通う生徒たちである。だが、月謝を払っているのはその親だ。親との関係は非常に重要で実に気を使う。親御さんとの接触を保護者対応と呼ぶ。

年に二度ほど、塾講師は保護者と面談を行う。一応、塾でも担任というものを設定しており、自分が担任しているクラスの保護者に塾へ来てもらい、面談をする。生徒の勉強の様子や進路について話し合う。

あとは、電話でのやり取り。生徒が宿題をあまりにやってこなかったり、授業中に問題行動があったりすると、電話をして保護者にその旨告げる。

学習塾でもクレームには敏感だ。家庭からはいろんなクレームが来る。講師が生徒に暴言を吐いただの、通塾指導のときの態度がわるいだの、宿題が多すぎるだの少なすぎるだの、せっかく購入した教材を使っていないだの、授業中ほかの生徒がうるさいだの、いろいろ。なかには言いがかりじみたものもあるが、ほとんどまっとうな言い分なので、しっかり受け取って改善に取り組む。このへんは塾といえどもサービス業である。

塾講師の仕事内容:ポスティングと門前配布

授業以外の仕事には何があるか。たとえばチラシの配布だ。

学習塾の目標は、生徒の成績を上げて志望校に合格させること。であるとともにもう一つ、生徒を増やすというものもある。このために、宣伝は欠かせない。私がいた塾の場合は近所の家の郵便受にチラシを入れる、いわゆるポスティングと、小中学生の帰宅時間をねらって学校の校門の前でチラシを配る、いわゆる門前配布の二つがメインだった。

チラシは教室内にあるリースのもので刷る。A4に印刷したものを2つ折りくらいにして、ポスティング用はそのまま紙袋へ、門前配布用のはまずクリアファイルに入れる。さすがに小学生でもチラシ単体を受け取ってはくれないため、クリアファイルで釣る作戦である。で、案外この、チラシを「折る」という作業がたいへんである。

夏期講習の前、上司がコピー機が発火しそうなほどチラシを印刷していることがあった。印刷したものは床にどんどん積まれ、結局、膝くらいまであるチラシのタワーが3つできあがった。

「これ、○日までに折っといてくれる?」

いちばん下っ端の私に、それをすべて折るという作業が命じられた。「いやだよ、めんどくせぇ」と言って断りたい気持ち満々だったがそうもいかず引き受け、それからしばらくは空いた時間にひたすらチラシを折っていた。陰鬱な記憶である。結局終わらなくて怒られたしね。

話を戻す。

ポスティングは、わるい仕事ではなかった。特に、仕事に嫌気がさしてからは、一人で外に出て1、2時間ぶらつけるこの業務は好きであった。家々の郵便受にチラシをちまちまと配り、ある程度配れたらコンビニでたばこを吸ってくつろぐこともできた。

門前配布だが、これもどちらかと言えば楽しい仕事だ。最初こそ、見ず知らずの小学生相手にチラシを配るのはやや勇気が要るが、慣れれば楽しい。あいつらも二回目以降はこちらに慣れてきて、あっちの方から群がってファイルをひったくるように取り去ってゆく。ピラニアに食われるときの気持ちが少し分かった。ちなみに、学校の敷地にさえ入らなければ学校側から咎められることはない。不審者として通報されることもない。

こうして数百、数千とチラシを撒いていくと、ポツリポツリ、電話での問い合わせがある。私の塾ではホームページや新聞の折り込みでのPRもしているが、ほとんどは上記二つがきっかけとなって問い合わせがあった。この、保護者からの問い合わせのことを「反応」と呼ぶ。ここで相手の名前、電話番号、学年などを聞き出し、かつ、実力テストの受験や体験授業に来てくれるよう誘う。そうやって入塾へ繋げていくのだ。

集客はチラシ配りや体験授業や、あるいは他の生徒からの紹介など、いろんな要因が重なってなされるものだが、私の塾の場合、なぜか生徒の入室は「問い合わせの電話を最初に取った人」の手柄とされていた。問い合わせの電話を取るかどうかは運次第なのだが、あたかもその電話を取った人の手柄みたいな扱いをされていたのが不思議であった。

ポスティングと門前配布。どちらも事前に準備がいるし、一度そのために外に出ていけば1時間くらいはかかる。息抜きにもなるが、負担にもなる業務だ。

塾講師の仕事内容:一日の流れ

去年、八ヶ月という短い期間ながら、私は学習塾で働いていた。契約社員という雇用形態ではあったが、仕事内容は正社員とまったく同様だった。このところ塾での仕事のこともあまり思い出さなくなっていたのだが、忘れないうちに備忘録として塾講師の仕事について書いておきたい。

一日のおおまかな流れはこうだ。

出勤は1時から1時半。お昼を食べてから教室に出勤する。みなが集まると2時前に軽いミーティングを行う。ここではその日一日の仕事の流れを確認したり、生徒の入室・退室のこと、成績や状態について情報交換をする。

その後はしばらく、各々が抱えている仕事に取りかかる。学習塾には授業以外のさまざまな雑務があるのだが、それについてはあとで詳しく書く。少し例を挙げるなら、新しく入室した生徒に配布する教材を準備したり、地域の住宅にチラシをポスティングしに行ったり、テストの採点をしたりなどである。けっこう時間を取られる。

午後5時前、そろそろ小学生が集まって来る。授業がはじまる15分ほど前には講師が二人、塾の前に出て、生徒たちを出迎える。これは「通塾指導」、あるいは省略して「通塾」と呼ばれている。

1時間ほど小学生クラスの授業を行う。ここは説明の必要もないところだろう。

6時くらいに授業が終わり、生徒たちを見送る。中学生クラスの授業開始は7時過ぎなので1時間ちょっとの空白ができる。ここで軽い食事を取っておくことが多い。しかし、はやめに来た中学生からの質問を受けたりするので、それなりに慌ただしい。

7時過ぎから9時半くらいまで、中学生クラス二コマの授業。これが終わるとほとんどの生徒たちは帰っていくが、勉強熱心な子は10時まで粘って質問をしてから帰る。

最後に教室内の軽い掃除や整頓、消灯のチェックなどをして、塾を出るのがおおよそ10時から10時半といったところである。ときには11時や12時を過ぎる残業もあるが、頻度はさして多くはなかった。

と、だいたいこんな感じで日々過ぎていく。

塾講師というとどうしても授業のことばかりに目がいくし、それがメインの仕事であることは事実なのだが、他の業務もばかにできない。というか、使っている時間で考えれば、授業そのものよりその他のことの方が多いのだ。

具体的にどんな業務があるのか、詳しくは次の記事で書こう。

2016年4月24日日曜日

漢字かひらがなか

とりとめのない話を一つ。

ワナビのみなさまならだれもが迷うであろうこと、つまり漢字かひらがなかという問題。これについてだらだら書こうと思う。

学生時代は、とりわけ義務教育のうちは、漢字の書き方を教わる。なるべく漢字で書くほうがいいと教わる。だから、漢字かひらがなかという問題には、自発的に文章を書くようにならないと直面しない。しかも、これといったルールがあるわけでもなく、自分なりに考えていくしかない。

たとえば、上の二段落目の前半部、どう書くのがいちばんスマートだろうか。

「ワナビの皆様なら誰もが迷うであろう事」

フルで漢字にするとこうだ。だが、若干、字面が濃い。では、これならどうか。

「ワナビのみなさまなら誰もが迷うであろうこと」

ほぼ、もとの通りである。私の中ではこれも許容範囲だ。結局、ぜったいにこうでなきゃいけないというものはない。

それでもある程度、自分なりに基準はあって、接続詞や副詞はほとんどひらがなにするとかしているのだが、非常によく迷うものもある。というか、一つの作品においてだいたい混在してしまうものがある。

「分かる」

これはくせ者だ。いっつも、「分かる」か「わかる」かで迷う。そしてどっちつかずになる。本によって、作者によって、これをどうするかは本当にまちまちである。

「ひとつ、ふたつ」

これもよく迷う。「一つ、二つ」でも別にいいのだが、やはりこれは和語であるから、日本特有のひらがなで表記するほうがしっくりくるような気もする。「ひとり、ふたり」も同様。ちなみに、「三人」を「さんにん」と書くことは絶対にない。

「○○のほう」

これは、元々はいつも漢字で「方」と書いていた。だが、何かの本でひらがなにしてあるのを見て、それもいいなと思い、感化された。書くたびに迷っている。

「来た、来る」

これも厄介者だ。文章が単調なためか、登場人物がどっから来ることが多いのだが、そのとき「くる」のか「来る」のか、迷う。漢字でも違和感はまったくないが、あまり頻出するとうるさく感じる。神経質すぎるのかもしれないが。

「僕、俺」

これは、だいたいひらがなで「ぼく、おれ」と書く。けど、漢字のほうが自然かもとも思う。どっちがいいだろう。

「全然、絶対」

これはもともと二字熟語であるから漢字で書くのが普通だが、日本語にすごく馴染んでいるため、ひらがなで書いても違和感がない。けっこう溶け込むのだ。前後に漢字が多い場合など、ひらがなで「ぜんぜん、ぜったい」でいける。そしてこの、敢えてひらがなにしてるところが手だれっぽくてかっこよくもある。

「彼」

これも、敢えてひらがなで「かれ」とするとかっこいい場合がある。翻訳物の小説では「かれ」が多い印象。一方、「彼女」を「かのじょ」とするのは見たことがない。


とりとめのない話をしてしまった。寝るとしよう。

2016年4月23日土曜日

隠居という生き方

現在、私はコンビニバイトと家庭教師をやっている。いわゆるフリーターである。

ところで、私同様フリーターとカテゴライズされる人の中に、しかも若い人の中に、隠居を自称する人がいる。『20代で隠居』の著者がそうである。この人は週二日だけ働いて、賃貸で慎ましく暮らしている。あるいは、川のほとりに土地を買い、小屋を建ててそこで暮らしている人もいる。『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』の人だ。さらには、数年前からたびたびフィーチャーされる「京大卒ニート」のphaさんもその類である。

要は、定職に就かず、さりとてミュージシャンや作家といった夢を追うわけでもなく、ただまったりと生きる人、そういう人がちょこちょこいて、そこそこ注目を集めているのだ。

こういう人の書いたものに接したり、メディアで特集されてたりするのを見ると、ある程度はシンパシーを感じる。自分の中にも、世間の価値観や圧力を無視し、ただただ静かに暮らしたいという欲求があるのを感じる。

しかし、一点、私の場合は野心があるというところが違っている。小説家になりたいという野心があり、内心、功名心と名誉欲であふれかえっている。そういう意味では、世の中の平均的よりもずっと隠居に遠い存在かもしれない。

だがしかし、隠居的な人生というものへの憧れも理解はできるし、共感もできる。ひょっとしたら、できることをすべてやり、刀折れ矢尽きた時、そっちの方へ傾いて行くのかもしれない。まあ、その場合は、彼らのような純粋に隠居を志向する者ではなく、敗残者としての烙印は免れないが。

2016年4月12日火曜日

退屈の問題

南米ウルグアイの元大統領、ムヒカ氏が来日している。おととい、夜のニュースで特集されているのを観た。

ムヒカ氏がよく言うのは、日本人が働き過ぎているという問題である。お金のために時間を切り売りし、それによって自分らしい時間、好きなことをする時間がなくなっているという指摘である。事実、そうだろうと思う。フルタイムで働いて、おまけに残業まであったら、自分のための豊かな時間を持つことは難しい。

しかし、そこには一つ見落とされた問題がある。それは、退屈だ。

多くの人が働き過ぎているという。だが、もし時間の切り売り労働をやめ、毎日あさから晩まで自由に時間を使えるとなったら、ほとんどの人はこう感じるだろう。「退屈でたまらない」と。

暇だとか退屈というのは、現在、不当に甘く見られているように感じる。ショーペンハウアーのような卓越した思想家は、退屈がとんでもない害悪を人類にもたらしうると洞察しているが、一般的にはあまりそのリスクな認識されていない。かれの時代よりかなり豊かになったはずの現代日本でも、貧困や戦争の問題が語られる一方、退屈は真剣に受け取られていない。

おそらく、退屈が予想外にシビアなものだと感じている人はいる。定年退職したサラリーマンは、たぶんそれを感じている。あまり表には出てこないが、とくに何の予定も見通しもない年単位の茫漠たる時間を前にして、途方に暮れている人は多いのではないか。

さて、退屈への対処法にはいくつか考えられるが、まず、何かに飽きない人というのはある意味つよい。テレビでも旅行でも社交でもゲームでも、飽きずに延々と続けられるなら、それでいい。馬鹿っぽい感じはするが、退屈への対処という点では有利だ。だが、普通は何にしたって飽きる。娯楽というのは、一般に、飽きが来るものだ。娯楽=レジャーは、ふだん働いてる人がするから気晴らしになるのであって、それだけやるというのは無理がある。

では何をしたらいいかと言えば、それは勉強か技芸か創作だろう。いずれも、娯楽としても享受されるが、それを越えたものである。しかも、終わりがないという最大のメリットがある。語学や歴史、何でもいいが、これらの勉強は終わりがない。やればやるほど奥の深いものである。勉強が研究になり、学位取得までめざせば、数年はすぐにかかる。技芸もそうで、踊りや武道、茶道、華道、こういったものが終わりがなく、何年でも続けられる。そして、創作。いちど創作にハマれば、それは死ぬまで続けられる。小説に関して言うと、ある程度書き方を身につけてしまえば、あとはいくらでも書ける。ひとりでやれるし、だれにも迷惑はかからないし、勉強したことを活かすこともできるし、永遠に終わらない。

退屈の問題が直視されたとき、勉強や技芸とならび、創作はまた新たな脚光を浴びるのではないだろうか。

2016年4月8日金曜日

小説すばる新人賞に応募した

一週間ほど前、小説すばる新人賞に応募した。構想開始からおよそ二年、ようやく形にできたものを送った。送った直後に一カ所、設定に矛盾を見つけるという痛恨のミスを犯したが、とにかく投稿を済ました。数日後、集英社から受領のはがきも届き、家族に見られる前に回収を済ませ、一段落である。

目下、勉強と構想の期間に入っている。ワナビとは言え、常に書き続けているわけにもいかない。脱稿から一ヶ月半ほどは、次回作の準備と勉強が必要だ。いろいろ考えている。

二年程前から、創作に関しては『もしドラ』の岩崎夏海の教えを第一に取り入れ、考えているのだが、氏の発言の中でいま頭を占めているのはこういうことだ。「人間は、夢や無意識で見たものを目の前で再現されると面白いと感じる」。原文ママではないが、こういう発言があった。これは映画についての文脈で言われたものだが、小説にも妥当するだろう。

なにか、夢で見たような、あるいは無意識に欲望している、または恐怖しているようなヴィジョンというのを、小説の中で描きたい。たとえば筒井康隆『文学部唯野教授』のクライマックスである教授が発狂したように主人公を罵る場面、あるいは岩崎夏海『もしイノ』の最後で魔球によってストライクを取りまくるという流れ、ガルシア・マルケス『百年の孤独』のあらゆる場面……枚挙にいとまはない。あ、そうそう。ピンチョン『ヴァインランド』で、パーティー中の飛行機になぞの飛行物体が横付けしてだれかが乱入してくるシーンもいい。ああいうの。

しばらく自分の無意識レベルの欲望や恐怖というものを探ってみたい。きっと何か題材があるはずだ。