2014年12月26日金曜日

ダメ男が女性受けする理由

今年、お笑いではどぶろっくと日本エレキテル連合が大人気を博しましたが、そこでつらつらと、なぜこの二つが日本人にうけたのか、理由を考えてみました。そこで気づいたこと。それは、どちらもダメ男を題材にしているということです。

どぶろっくの歌は意識過剰な男の妄想であり、エレキテルの方は寂しい中年男性を題材にしたコントです。どちらもあまりもてそうもない男性をモチーフにしております。ここに何か鍵があるにちがいない。

そこでしばらく考えて思い至ったのは、そういうもてない男、ダメな男を主題とすることが、女性に対するある種のおべっか、お世辞になっているのではないか、ということです。男性と女性によって構成される恋愛市場の中で、男性を劣位のものとして描けば、それは相対的に、女性を優位に押し上げることになるでしょう。これが世の中の女性に快く受け入れられたのではないか。

同じような構造のものとして、森見登美彦の作品も挙げられるかもしれません。彼の作品もヘタレ男子大学生を主人公として、その生態を描いたものですが、女性うけがいい。やはりこれも、男の地位を下げてみせることで、女性読者の心理をくすぐるものになっているのだと考えられます。

また、今年はアナと雪の女王もメガヒットを記録しましたが、これも考えてみると女性のつよさを描いたものでした。作中ではひどい男(王子様)がアナによってこらしめられるのです。そして、この作品も主に女性客にアピールしたのでした。

では、なぜこうした女性を持ち上げたコンテンツが流行したのかと言えば、それはやはり、現実には恋愛というゲームの中で女性がだんだん劣位に置かれてきたからだと考えられます。バブル期には恋愛において女性が最高度に優位におりましたが、その後、女性は恋愛市場においてじょじょにパワーを失ってきています。そうした現実における不満感が、逆に、女性のつよさと優位を描いたフィクションがはやる素地になっているような気がいたします。

2014年12月12日金曜日

野性時代フロンティア文学賞 今年も一次通過

タイトル通り、喜ばしい結果となりました。一次通過です。

振り返ると、今年は新人賞に合計で4本応募しておりました。そのうち すでに3本は一次でボロボロ落選という体たらくだったのですが、年末も迫るきょう、野性時代1月号をチェックしたら拙作が一次を通っておりました。この賞は昨年も一次を通過していたので 二度目ということになります。

二次選考の発表は来月号ですので、年末年始はわくわくどきどきはらはらしながら過ごすことになりそうです。

ちなみに、今年は応募総数が840本とありました。昨年は973作品だったので、130もの減少ということになります。賞金額が300万から100万に下がったためなのでしょうか。あるいは他の要因が……? ともあれ、応募総数と受賞のハードルは必ずしも比例しないのですけどね。

昨年は二次で落選しましたが、こんどは通ってるといいな。


ちなみに、当ブログからリンクを貼らせてもらっている常木らくださんとハットリミキさんも一次通過しておりました。他にもツイッターで交流のある方が二人ほど通過しており、なんだか賑やかで嬉しいです。

2014年12月6日土曜日

鬱なのでとことん鬱になってみる

とかくこの世はままなりません。

さまざまに希望や期待を抱いていても、そのほとんどは叶わない。かつて、あれやこれやと夢想していたパステルカラーの未来は、気がつくと跡形もなく消えています。「あれ、こんなはずじゃなかったのに」。心の中でひとり、そんな紋切り型の台詞をつぶやいたりします。けれども、こんなはずもどんなはずもない。あるのはただこのグレーな現実ばかり。

いつかきっと、幸せが舞い込んで来る。輝かしい未来が自分を待っている。根拠もなく、漠然と、そんな気がしていたものです。いつかどこかで、素敵な生活が送れるにちがいない。夢を実現させ、羽ばたいていけるにちがいない。しかし、待てど暮らせど、舞い込んで来るのは不幸ばかりです。羽も一向に生えてきません。

たとえば、女の子にモテたいなんて思っていたことがありました。かわいい女の子と親しくなって、デートを繰り返し、彼氏彼女の関係になって、やがては熱い夜を過ごす。そんな夢を思い描いていたこともありました。街を見渡せば、そんな関係と思しき男女が自動販売機よりたくさん目に入る。友人の中にも、異性とお付き合いしている者はたくさんいる。中高生だって普通に男女交際というものをしている。なのに、それだけありふれた行為なのに、ついぞその希望は叶わないのでした。

「おい、どうなってるんだ。このモテなさ、いったいだれが責任を取ってくれるんだ?」。ついそんなクレームを付けたくなります。どこかにこの悲劇の元凶がおり、そいつの首根っこを掴んで恫喝してやりたくなります。けれども当然、そんなクレームを付ける相手などおりません。いるとすればそれは自分自身だけ。

では、モテないことに関しては諦めよう。諦めてやろう。それは自分にも非があるのだし、嘆いたって仕方がない。けど……と、つい考えるのです。このモテないつらさ、悲しさをだれかに分かって欲しい、と。いえいえ、しかしすぐさま、それすら贅沢な望みだということがはっきりしてきます。だれも、私がモテなくて苦しんでるとか、悲しんでるとか、そんなことに興味はないのです。そもそも、そんな個人的なことに興味を持ってもらえるくらいなら、モテているでしょう。モテないとは、モテないことすら無視されることです。

少しモテるモテないの話に傾き過ぎましたが、他の事柄でも同じ。お金がなくてきつい、第一志望の学校に入れなかった、希望の職業に就けなかった、すべてそれだけでもつらい。だけど、そのつらさはだれが癒してくれるでもなく、理解してくれるでもないのです。ただ、自分でつらがるしかありません。

「むかし、こんな苦しい時代があったんです」。そんな話をして聞いてもらえるのは、ごく一握りの者だけです。成功したから、多くの人に、苦労時代の話に興味を持ってもらえるのです。メディアで語る意義も出てくるのです。成功していない人間に苦労時代の話なんてする機会はない。苦労時代なんてない。あるのはただ苦労のみです。終わりの見えない苦労のみ。

いえ、ちがいますね。終わりが見えないわけじゃない。確実に終わるときは来る。そう、死ぬときです。死は必ずいつかはやってくる。どんなに不幸続きだろうと、終わりはあるのです。死という終わりが。それだけが心の支えです。

生きる苦しみや不安の多くは、自分と他人を比較することから生じるものと思われますが、しかし自分より上だと思って妬んだり羨んだりしてた人も、やがては死にます。片想いしてた女の子と付き合ってた憎らしい男も死にます。片想いしてたその子も死にます。私よりいい大学に行った友人、大手企業に入社した知人も死にます。一流企業に入ろうと零細企業に入ろうと、結局はお墓に入ります。美人もブスも、イケメンもブサメンも、やがては大差ない皺くちゃババアジジイになって灰になります。

死んでしまえば、もはや生前のことなど関係ありません。生きてた頃どんな人間だったか、どんな苦労をしたか、どんな夢を持っていたか、そんなこと、世の中にとってはどうでもいいことです。子どもや孫がいれば、たまに話にのぼることもあるでしょうが、それだけです。死んで百年も経てば存在すらだれも知らないでしょう。

ままならない世の中で生きて、右往左往して、やがて死ぬ。それだけのことです。

2014年12月1日月曜日

ボイルドエッグズ新人賞落選

9月末に応募して以来、どれほどこの時を待っていたことでしょう。とうとうボイルドエッグズ新人賞の結果発表と相なりました。

結果は、落選!

正直これはショックです。かなり自信作だったし、内心「これは受賞じゃないか」と思っていただけに。二週間ほど前から電話が鳴るのを心待ちにしていたのですが、結局鳴らず。しかも、この賞は惜しかった作品に講評でアドバイスがあるのですが、そこでも言及なし。厳しいもんです。

ではどんな作品が受賞したのかと言えば、今回は「該当作なし」という結果でございました。応募しただれもが落選。ボイルドエッグズ新人賞は以前こういうことがちょいちょいあったのですが、ここ数年は毎回受賞作を出していただけに少し意外です。

けど、前回の受賞者の作品は雑誌・新聞など多くのメディアで取り上げられていますし、この賞はワナビにとってはかなり狙い目だと思います。ジャンルは幅広いですし、必ず代表の村上さんが読んでくれますし、応募から発表までが早いですし、いいことがたくさん。おすすめです。私も、次こそは獲れるよう精進します。

ああ、でも今年はことごとく落ちているよ……。

運も実力のうち

賞に落選すると、ついこんなふうにつぶやきたくなります。

「運が悪かった……」と。

とりわけ自信作が一次選考ではじかれると、どうしてもそんな思いが湧いて来る。もちろん、たいていそれは負け惜しみであり、実際には実力不足に起因するものでしょう。落選という事実は謙虚に受け止めるのがベストだと思います。

とはいえ、それでも運によって左右される部分はあるでしょう。非常に公平性が担保された大学の一般入試でさえ、やはり運の要素は関わってくるのですから。いわんや新人賞においてをや。事実、ある賞で落選したものが別の賞で受賞ということもままあります。

もちろん、質が一定のハードルをクリアしていることは前提です。いい作品が不運によって落とされることはあるでしょうが、不出来なものが幸運で受賞ということはまずないでしょう。ということで、質はいいというのは前提とします。けど、その上でなお、運に左右されることはありうると思う。

ではどうするか。

よく「運も実力のうち」などと言いますが、そう言って運を天に預けるだけでは芸がありません。発展性がありません。ここは、数にものを言わせるべきではないかと思います。質を高める以外に手を打つなら、数に訴えるしかない。

例として、とても単純な確率を考えてみます。

サイコロを1回振ったとき、1の目が出る確率はもちろん1/6です。約17%。1回振っただけではなかなか目的の目は出ません。

では、4回振ったらどうか? 4回振って1の目が少なくとも1回出る確率。それはこうなります。

1-(5/6)^4=1-625/1296=671/1296≒0.52

(「4回中、最低でも1回1の目が出る」の余事象は「4回中、1回も1の目がでない」なので、こういう計算)

答えは約52%。1/2を越えます。

これが6回なら約67%で、10回ならば約84%となります。かなり現実的な数字になってくるのです。当たり前っちゃ当たり前ですが、試行の回数を増やせば、目的の目を出せる確率はグングン上がってくる。

というわけで、「運も実力のうち」という言葉、考え方は、ややもするとオカルト的になってしまいますが、正しく捉えるなら、重要な示唆を与えてくれるものだと思います。つまり、運=確率を上げるには数を打つのが効果的で、それができるのも実力のうちだということです。

結論! いっぱい書こう!

2014年11月29日土曜日

谷崎潤一郎『痴人の愛』が面白いよ

本当に面白いのですよ、これが。

谷崎潤一郎。文豪と称される作家だということは昔から知っておりましたが、今回初めてこの人の作品を読んでみました。選んだのは代表作『痴人の愛』。これも書名だけは知っていましたが、読むのは初めてでした。

で、これが面白いのなんの。

もっとも感銘を受けたのはその文章の巧さ、美しさです。これほどの美文はしばらくお目にかかっていませんでした。いや、もしかしたらこれまで読んだ文章の中で最高かもしれません。私にとって、巧い文章を書く人といえば太宰治で、かれが最高の美文家だと信じていたのですが、谷崎はそれを越えているかも。

まあ、今更「谷崎潤一郎の文章が巧い」などと、三十路も迫った人間が何を言っているのかと思われるかもしれませんが、私としてはこれは驚きだったのです。まさかこんな逸材がいたとは!

現代作家と比較しますと、文章に非常に身体性があります。具体的にも、身体的部位やその動きの描写がとても詳しいですし、風景の描写も凝っています。また、心の細やかな動きも非常に繊細に描写していて、小説の醍醐味というものを思い出させてくれます。こんなものを読んでしまうと、現代の作家の文章がみな一様に見えてしまうかもしれません。

もう少し伝わりやすい話をしますと、現代では使われなくなってしまった語彙が随所に出てきて、これがまたいい。私は元来、死語フェチというか、いつの間にか消えた言葉を再発見するのが好きなのですが、そんな私からすればまるでこの一冊は宝箱のようです。

たとえば「因果な事に」なんて、まあ使う場合もありますが、ほぼ忘れられた言葉です。「直きに」も現在ではかなり限られた場合にしか使いませんが、この作品のセリフには頻出。他にも「蓮っ葉」だの「意匠」だの「後生だから」だの、使い勝手の よさそうな語彙が盛り沢山。できればこんな言葉たちが現代に蘇って欲しいものだと思います。

ただし、私はこの『痴人の愛』のようなデスマス調の告白体が好き、という事情がありますので、谷崎の他の作品の文章も気に入るかどうかはまだわかりません。次は『春琴抄』を読んでみようと思います。

あ、そうだ。『痴人の愛』はキャラクターやストーリーもとても魅力的で、どこまでも引き込まれます。未読の方はぜひ!

2014年11月18日火曜日

面白がる技術

世の中には面白いものがたくさんあります。小説、エッセイ、映画、アニメ、漫画、ゲーム、SNSなどなど。退屈さに満ちた日々の生活の中で、私たちはこれらを励みにして生きています。どれもこれも、それぞれちがった楽しみを与えてくれるものです。

人によって、どれが好きかはそれぞれでしょう。活字が好きで本の虫という人もいれば、ネットゲームにどっぷりハマっている人もいる。どのメディアも独自の特長があるわけですから、人によって選ぶものはちがってくる。

こういう状況の中で、私たちはよく、好みは人それぞれだと言います。趣味はちがうし好みもちがう。同じ映画にしても、派手なハリウッドのアクションが好きだという人もいれば、ヨーロッパの芸術的な映画が好きという人もいる。それでいいのだと思っています。

ですが、本当にそういう相対主義的な捉え方でいいのでしょうか。この頃、そういう疑問によく捕われます。人によって好みがちがい、面白いと思うものもちがう。そこに優劣はない。ただこれだけなのか。どうもちがうような気がしています。何かを面白がるというのも実は技術であり、その技術には優劣があると思うのです。

面白がる技術。これは、テレビや漫画のような大衆向けの娯楽ではあまり問題になりません。だれでも、ほとんど何の知識も修練もなしに楽しめるように作ってあるからです。ですが、たとえば古典文学や芸術的な映画などになると、面白がれる人とそうでない人の区別が出て来る。わかりやすい例で言えば、もしある映画のシーンに過去の名作のオマージュが出てきたとき、それを知ってるかどうかで楽しみ方は変化するでしょう。そこではある程度の知識・修練が必要とされています。

私は、割と最近までは、こうしたことを意識していませんでした。自分にとって面白いものが面白いもので、つまらないものはつまらない。そういう自分を基準にした発想しかなかったのです。まさかそれが客観的に正しい評価基準だとは思っていませんでしたが、その自分の基準自体を疑ったり成長させたりということはほとんどなかった。

しかし、そのやり方でいくと、新たに面白いものを発見できる確率が下がってしまいます。もし、少しがんばって面白がる技術を修練すれば、その面白さに開眼できたものを、自分の未熟な基準で最初に判断して切り捨ててしまえば、もうそこでおしまいになってしまうのですから。

もちろん、クリエイターとしてはなるべく多くの人に楽しんでもらえるものを作るのが基本姿勢でしょう。それがプロとしての務めではある。ですが、わかりやすさばかりを追求すれば、結局、本当の面白さが損なわれてしまう。今のテレビ番組というのはこういう事態におちいっているのではないでしょうか。だから、わかりやすいものを志向しつつも、それによってコンテンツに内在する面白さを毀損してはいけないのだと思います。

再び享受する側から言えば、私はまだまだ面白がる技術を磨けていない。ということは、この世に存在する面白いものを発見できていないことになる。というわけで、これからも面白がる技術をどんどん磨き、これまで素通りしてしまった、本来面白いものを享受できるようになりたいと思います。

2014年11月16日日曜日

教養とは何か

前回書いたこととの関連で、教養とは何かという問題に興味を持ちました。そこでさっそくアマゾンで注文して読んだのがこちら。竹内洋『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』(中公新書)。

内容は、戦前の旧制高校における教養主義についての分析、それから新制高校になってからの教養主義の変化、そして学生運動を経てその後学生にとっての教養、あるいは教養主義がいかに変化・没落したかという考察です。データが駆使され、最初から最後まで一貫性を持って書かれている硬派な良書でした。

とりわけ序盤では、旧制高校の学生たちがどのような本、雑誌を読んでいたか、教養についてどんな態度を取っていたかということが語られております。時折、むかしの高校生・大学生はよく勉強したと言われることがありますが、注目すべきは、その勉強量というより、硬派な教養に対する態度、尊敬の念です。どうやらそこには、現代において失われたある種のイズム、まさに教養「主義」と称すべきものがあったようです。

つまり、それは当時の学生にとっては当然のものであり、取り立てて教養を積む意味を問うことはあまりなかったようなのです。カントを読み、ベートーベンを聞き、ドイツ語のジャーゴンを駆使している奴はえらい、かっこいい。それは自明のことであり、ではなぜカントを学ぶのか、ベートーベンを聞くのかは考えていなかったらしい。

そこで考えてしまうのは、教養主義がまさに没落した現在において、そのような硬い教養に手を出すことにどういう意味があるのかということです。私自身は哲学科に在籍して学んでいたわけですが、他の学部・学科の人からすればただの好事家であったかもしれません。あるいは、実学をやる人からすればカビ臭い学問に耽溺するオタク、または現実逃避の徒だったかもしれない。

実際、いまの世の中における哲学や古典文学の扱いというのは芳しいものではありません。理解のある人もいますが、一般的な了解としては「変わった趣味」ぐらいに捉えられている気がします。もし何か学ぶなら、ITや金融や英語、読むのなら啓蒙書やビジネス書というのが大勢でしょう。旧制高校的な教養は実用からはほど遠い。

では、それは娯楽なのだろうか、エンターテイメントなのだろうか、とも考えます。たしかに、楽しいからそういう教養書に触れるという人も多いはずです。私もある面ではそうでした。しかし、と考えてしまいます。では、ショーペンハウアーやゲーテを読むのと、アニメを見たり漫画を読むことはまったく同じなのだろうか? ただ選択肢のちがいに過ぎないのだろうか? こう自問すると、やはりイエスとは言いがたいものがあります。

実用のためでもなく、さりとてただの娯楽でもない。では、教養とは何なのか?

結局、この問題は今後も考えなければならないようです。

2014年11月12日水曜日

知的な忍耐力

今回はたぶん、まとまらない内容になると思うのですが、最近考えはじめたことを書いてみます。テーマは、知的な忍耐力。あるいは、息の長いものに付き合う力です。

何のことかと言うと、インプットとアウトプットのあいだに長い空白があるものにどれだけ耐えられるかというその忍耐力の重要性についてです。ツイッター全盛の時代になって、インプットとアウトプットはほぼ同時というのが主流になりました。出来事がある。感じる。スマホに入力する。公開される。反応が来る。このプロセスが秒単位にまで短縮された今、それとはちがう、息の長いコミュニケーション、あるいはクリエイションが逆に重要になってくるような気がしています。

ここ数年、ブログからmixi、そしてツイッターへとSNSが変遷してきた背景には、おそらく、上記のようなサイクルの短縮化があったのではないかと思います。ブログですとなかなか反応は期待できないが、mixiならマイミクからすぐコメントがつく。そしてツイッターなら数分以内にRTなどの反応が来る。このインスタントな有り様が人々の心に訴えたのではないでしょうか。

ですが、ワナビ活動というのはこの対極にあります。300枚前後のものを数ヶ月、長ければ一年もかけて書き、新人賞に応募して、結果が出るのは半年後とかです。着手から結果発表まで一年くらいかかることもざら。しかも、応募者の大半は一次で落選して名前さえ出ないわけですから、いわば無反応。こうしたことに耐えるのはなかなか厳しいものです。

たぶん、このつらさを緩和してくれるのが評価シートというものなのでしょう。一応、反応が得られますから。しかし、こうしたものを求めすぎるのもどうかと、この頃思っています。

もともと小説を書くというのは非常に根気のいることで、反応が返って来るまでだいぶ長い時間待たねばならないものです。けれど、反応がない中で、自分の中で考えや感情や情景を長期間保持することによって、そうすることでしか生じない何かというのがある気がします。小出しにして少しずつ反応を得ることで消えてしまうエネルギーというのがあると思うのです。

ワナビに限らず、プロの小説家でも事情は同じで、インプットからアウトプットまでの時間も、書いたものが読者に届くまでの時間も、かなりかかる。そういう職業に就くのなら、知的な忍耐力というのは必ず身につける必要があるだろうと思います。新聞記者やライター、漫画家やデザイナーと比べても、小説家ほど創作と反応のあいだが空く仕事というのはなかなか見当たりません。

というわけで、インプットしたものを孤独の中で醸成し、長い時間をかけてからアウトプットする、そして気長に反応を待つ、という力が欲しい、そう思います。

2014年10月31日金曜日

ポプラ社小説大賞 一次落選

ここ一ヶ月ほど、とても気がかりでした。6月末に応募したポプラ社小説大賞の中間発表が、です。もう、ほぼ毎日ポプラ社のホームページをチェックしてしまいました。

そして、ようやく本日、ホームページが更新され、一次選考の発表があったのです。〆切から今日までちょうど4ヶ月ですから、結構待たされました。応募総数は631通。通過したのは27本。5%弱の通過率ということで、そこそこ厳しいですね。で、肝心の私の応募作はどうだったかというと……落選でした。

先月の本のサナギ賞に続き、またしても1次落選。なかなか厳しいものがあります。

ま、結果待ちがまだ2本あって、これらの方がだいぶ自信があるので、これしきで凹みは致しませぬ。失敗は成功の母である、なんて言葉もあります。実際、そうだと思うのです。いちど失敗すれば、その道はなしだとわかる。挑戦する中で得られるものもある。そう思って、また執筆中の作品に力を入れることにします。

2014年10月20日月曜日

吉田恵輔が面白いぞ

ワナビとしての近況ですが、恥ずかしながらもう三ヶ月近く何も書いておりません。全然もう、一行も書いてない。

ですが、アイデアがないとか創作意欲がないというわけではないのです。一応、現在温めている企画はあり、主人公の設定とか、話のだいたいの雰囲気などはできているのです。が、なぜか一本の話としてまとまらない。「これで一つの完結した話になる!」という状態まで持っていけず、何となく散漫なままこねくり回しているという状態です。困ったものだ。

まあ、そんな泣き言のようなことを書き連ねても仕方がないので、今回は映画の紹介をしたいと思います。吉田恵輔監督の一連の作品です。

この監督の何がいいかって、恋愛における人間の痛々しくも滑稽な姿をこれでもかこれでもかと描き込むところ。普通なら映画とかアニメとか、そういうフィクションで取り上げないような人間の姿、瞬間を捉え、じっとりと見せてくれるのです。ラブコメ作品が多いのですが、しかし一般的にラブコメといってイメージするものよりもだいぶ濃度が濃いというか、「そんなとこまで見せちゃう?」という作品になっています。

とりわけ、初期の二作品では過激な映像が頻出します。『なま夏』は中年男性が女子高生に恋をしてストーカー行為をしたり痴漢をしたりという内容なのですが、冒頭、いきなりその中年男性のナニのカットから始まります。また、『机のなかみ』は三十歳くらいのダメな感じの家庭教師が生徒の女子高生に恋をしちゃう話なのですが、こちらはその生徒のナニのシーンとか、パンツを下ろされたまま歩いて転んでおしりが見えちゃうとか、そんなのが出てきます。

さあ、もう引いた方もいるかもしれませんが、基本的にそういう、中年男が若い少女に恋をしてどつぼにハマるという話が好きみたいです、この吉田監督は。

その現在のところの集大成と言えるのが名作『さんかく』です。

これも、三十くらいのいい年の男が女子中学生に恋をしちゃって……という話なのですが、男としては「わあ、やめて! 見せないで!」と叫びたくなるほど面白い!

それから、少し系統は変わりますが、『ばしゃ馬さんとビッグマウス』という映画もすばらしい。この作品は当ブログで取り上げるのに相応しい内容で、ずばり、脚本家志望のワナビのてんやわんやを描いたもの。最初、シナリオの新人賞に応募した主人公が一次選考に落ちて泣くところから始まるのですが、もう、その時点で感情移入しまくりです。受賞作をけなしてみたり、偉そうに創作論を語ってみたり、自分の年齢と辞め時に悩んだり、ワナビあるあるの連続で、これは見ないわけにはいかないでしょう。

あと、『純喫茶磯辺』もいろんな面を持つ人間たちのふれあいがコミカルに描かれていてずっと笑えますし、『麦子さんと』は素直に家族愛が描かれていて泣けます。

吉田恵輔作品、いちど観てみてはいかがでしょうか。

2014年10月10日金曜日

私のブログ歴

前回の記事からの流れで、私のブログ歴について書いてみようと思います。と言っても、これはほとんど個人的な備忘録ですので、興味のない方はスルーしてください。


(1)やさぐれるとは、こういうことさ。(2006年2月から10月まで)

大学一年生の終わり頃に開設したブログ。数ヶ月の躊躇の後に作った。ハンドルネームはグレエ。学生生活の中のちょっとした出来事を自虐的に書いたものが多い。以後、この流れは十年一日のごとく続く。


(2)やさぐれローグ(2006年4月から2009年3月まで)

移転先のブログ。なぜ移転したのか、なぜ前のブログと時期が半年もカブっているのかは思い出せない。カスタムにかなり凝っていた。最上部の絵は歴史さんという人に描いてもらったもので、いい思い出。当時は「やさぐれ」という言葉にこだわりがあった。


(3)MEMON(2009年4月から2010年12月まで)

学部卒業・院進学を期に、seesaaからfc2に移った。が、この頃にはブログ熱もかなり冷め、仲間もみなブログを辞めたため、更新頻度は少なめ。後半の一年はほとんど更新していない。


(4)不思議の国のワナビ(2010年11月から現在まで)

このブログ。前のブログは放置していたが、まったくブログを持たないのも寂しく、開設した。最初はコラムを標榜していたが方向性がブレブレで、しかも二年に17回の更新という投げ遣りっぷり。途中から小説家志望であることを表に出し、ワナビブログへ。

ネット文化を振り返る

ツイッターを見ておりましたら、こんな記事が流れてきました。

侍魂に吉野家......一世風靡したテキストサイト管理人の今を調べた

かつて流行した、いわゆるテキストサイトの管理人について調べた記事です。

2000年前後からネットに親しんでいた方はご存知でしょうが、当時、ネットというのはまだまだ世間一般に浸透しておらず、コアな人々だけが楽しむものでした。そんな中でムーヴメントを巻き起こしたのがテキストサイトなるものです。文字通り、文章でおもしろいものを表現していた一群のホームページたちです。

さて、しかし今回、私は上記の記事で扱われているようなサイトについて述べるつもりはありません。というのも、私が本格的にネットをやるようになったのは大学に入学した2005年から。その頃、まだ存続している有名テキストサイトもあるにはあったのですが(Numeriとか)、しかし、熱気はだいぶ薄れている頃でした。私のネット遍歴はテキストサイト衰退期から始まったので、その頃から現在のことについて書こうと思います。

2005年頃にどういう変化があったかと言うと、それは、ブログ文化の勃興です。それまではHTMLを駆使して自前のホームページを作成するのが当たり前だったのが、タグを一つも知らなくともできるブログが流行するようになりました。私もその流行に乗った一人です。

やさぐれるとは、こういうことさ。(2006年2月開設)


さて、ブログの出現というと、テキストサイト的なものの消滅、単なる日記の大量発生……そんなふうに括られることが多いのですが、しかし私の見ていた範囲では、ある程度意識的に書かれた文章、ユーモアをめざすテキスト、つまりテキストサイト的なものを志向するブログがかなりの数あったと思います。

当時は大学生ブログランキングなどを伝って同じにおいのする仲間を探し、相互リンクを貼ったり、記事の中で言及したりといった交流もありました。いま思い返してみると、あの頃のブログというのはテキストサイト的な文化と現在のような普通の人が普通の文章を書くという文化の中間形態だったのではないかと思います。

しかし、そうしたテキスト系を志向するブログも2009年前後にはほとんどが消滅してしまいました。実際、私の当時のブログに貼られているリンクを辿ってみますと、ことごとく2009年あたりで更新がストップしています。あるいは、URLごと消えています。

ではなぜそのタイミングなのかと言えば、mixiの台頭が大きいでしょう。mixiは、いまでこそ影が薄いですが、当時はすごかった。それまでネットをさほど利用していなかった層までをも、mixiは取り込んでいたように思います。そして、mixiが持つブログとの最大の違いは、「普通の日記を書いても反応が期待できる」というところ。ブログの場合、多くは匿名ですし、訪問者ゼロからのスタートなので、読者を意識した文章を書かざるを得ません。エンターテイメントでなければならないのです。ですが、mixiなら最初から友人が見てくれるので、その日あったことをただ書き連ねても反応が得られるのです。こうして、低きに流れるようにして多くのブロガーがmixiに流れました。

その後に何が残ったか。

たしか、2009年頃だったと思いますが、一時期、ニコニコ動画の日記タグというものがちょっとした流行になりました。今でこそ顔出しで動画をアップする人が増えましたが、当時のニコ動はアニメなどのMAD動画ばかりで、顔を出しておしゃべりする人はめずらしかったのです。そうした人は「日記」というタグをつけて動画を上げておりました。その代表的な人物が今でも活躍中のニートスズキさんです。他にも、今はYouTuberとして活躍中のMAHOTOさんも、サシマンとして動画を上げていました。

一方、それから今日までのあいだにブログがどう変化したかと言うと、残念ながらテキスト系のものはほぼ壊滅状態です。探せばあるのかもしれませんが、大学生ブログランキングをチェックしてもそれらしいものはなく、なかなか発見するのは難しい。2005年頃にはある程度残存していたテキストサイトの残滓はほぼ完全に消え去ったと見ていいでしょう。

では、現在ネットにおいて全盛なのは何かと言えば、それは間違いなくYouTubeです。YouTubeはだいぶ前から「ようつべ」などと呼ばれ、存在してはいたのですが、ここ3、4年ほどで新しい展開を迎えています。ヒカキンさん、瀬戸弘司さんなどを始め、人気YouTuberが群雄割拠している状態にあります。

しかし、流行り廃りが激しいのがネット文化の宿命。今のYouTubeの活況がどの程度存続するのかはわかりません。いずれ、テキストサイト同様、「YouTuberなんてものもあったなぁ」と懐古する日が来るような気も致します。

2014年9月26日金曜日

小説の違法アップロードがないわけ

こう疑問に思われた方はいないでしょうか。

「音楽やアニメ、映画の違法アップロードはたくさんあるのに、小説の違法アップロードを見かけないのはなぜだろうか」

ネットの海を浮遊しておりますと、YouTubeをはじめとした動画サイトには違法なコピーが溢れかえっております。アニメはむかしの名作から放映直後のものまでいくらでもありますし、映画もかなりの数が視聴可能です。音楽にいたってはもう販売元が自らアップしたりしている。

それに対して、小説はかなり状況が異なります。著作権切れの作品を公開している青空文庫、素人が書いたものを集めている小説家になろう、あるいはエブリスタといったものはあるけど、市販の作品を違法にコピーしたものというのは見たことがありません。私もネット歴は14年になりますが、そのようなものは寡聞にして知らないのです。おそらく、ほとんど存在しないのでしょう。

では、それはなぜなのか。

一つの答えとしては、小説のコピーとアップロードが意外とめんどうだということ。デジタル情報としては圧倒的に小さいはずの小説ですが、文字をすべてキーボードで打ち直すのはかなりの手間ですし、全300ページもある単行本はコピーするだけでも大仕事。それに対し、音楽や映像作品はデータ量は多いものの直にコピーできてしまうから違法アップロードもされやすい。これも理由のひとつではあるかもしれません。

ですが、もう一つ、「コンテンツを享受するコストの問題」というのもあると思うのです。

先日書いた「濃さ」の問題ともつながってきますが、ある作品を楽しむためには受け手からのコミットメントが欠かせません。どんなものにせよ、ある程度は享受する側が歩みよる必要があります。たとえばそのための時間を作ったり、観ながら読みながら考えたり、他の知識を動員したりなどなど。そして、そのコミットメントの度合いはメディア、あるいはジャンルによって異なります。テレビはぼーっと見てても楽しめる一方、小説はそれなりの集中力・思考力・想像力が必要になります。つまり、コミットメントというコストが必要になるのです。

コストというと真っ先に思い浮かぶのは金銭的な費用ではあります。映画なら1800円のチケットを買い、小説ならやはり1000円前後の書籍を買う必要がある。けど、これらはコストの一面でしかありません。実際には、それらを楽しむためのコミットメントもコストなのです。そして、小説の場合は後者のコストの方が高い。

小説は、文庫ならわずか500円ちょっとで買えます。ですが、読むのにはたいてい2時間か3時間はかかる。しかも、集中力もある程度必要になる。とすれば、金銭的なコストなどたかが知れているでしょう。小説は、お金以外のコストが高いメディアなのです。

とすると、これが、小説の違法アップロードがない理由ではないでしょうか。たとえネットからただでデータをDLできたとしても、それで軽減できるのは金銭的なコストだけです。時間の節約になるわけでも、労力の節約になるわけでもない。そんなものを、わざわざ良心の呵責を覚えてまで入手しようという気持ちが、私たちには湧いてこない。そういう事情があるのだと思います。

2014年9月22日月曜日

ワナビ向け動画

暇さえあればネット上の動画を漁りまくっている者です、こんばんは。

さて、動画にもさまざまありまして、テレビ番組やらアニメ、YouTuberが個人でつくっているものなどネットの海は有象無象の動画で溢れかえっているわけですが、今回は小説家志望の方におすすめのものをいくつかご紹介します。

以下、いずれもプロの小説家が出演して創作について語っているものなので、非常に参考になるし鼓舞されるものがあります。ではどうぞ。


(1)鈴木輝一郎小説講座


主に歴史小説を書かれている鈴木輝一郎さんの動画です。鈴木さんは岐阜で小説講座をやられているのですが、週に一度、その講座の様子を数分の動画で公開しています。新人賞を取る方法、小説家にとって必要な力、なぜ短編ではだめで長編を書く必要があるのかなど、さまざまな内容で話されています。

ちなみに、鈴木さんの『新 何がなんでも作家になりたい!』は出版業界について詳しく書かれており非常に興味深いですし、『ご立派すぎて』という小説は作家志望の男の七転八倒が描かれていてワナビには楽しい内容になっています。おすすめ。


(2)石田衣良 小説スクール


『池袋ウエストゲートパーク』でおなじみ、石田衣良さんによる小説講座。エブリスタという小説投稿サイトがあるのですが、そこが主催して行っている講座の動画です。ダイジェストながらそこそこの長さがあって勉強になります。

受講生との対話形式で進められるのですが、タイトルの付け方のコツや冒頭の書き方など明日からすぐ使える内容もありますし、デビュー後の夢のある話もなされています。個人的には「小説家になればどんな男でもモテる!」とのセリフにロマンを感じました。現在のところ第0回から2回までがアップされています。


(3)筒井康隆


重鎮筒井康隆さんのお話。『創作の極意と掟』の出版を記念して行われた講演の動画です。文学史の大局的なお話が聞けて興味深い。『文学部唯野教授』など、自著についてのお話もあって、ファンにはたまらないでしょう。最後には大迫力かつ大爆笑の自作短編の朗読もあります。


ユースケサンタマリア、いとうせいこう、しょこたん、そして筒井康隆という異色の取り合わせで行われたトーク。ユーモアたっぷりでおもしろい。


あんまり動画を貼ると重くなるので控えますが、これら以外にも、保坂和志さんと山下澄人さんの対談動画とか、高橋源一郎さんのトークなど、興味深いものがけっこうネット上にあります。執筆に行き詰まってるとか、プロの作家の言葉に励まされたいという方はいろいろ観てみてはいかがでしょうか。

2014年9月19日金曜日

読書の秋

何の発作かわかりませんが、ここ一ヶ月ほど、無性に活字への飢えが高まり、本ばかり読んでいました。活字を目で追うこと自体が快感となり、次から次へと貪り読んでおりました。今回はそんな乱読生活の中で特によかったものをご紹介しようと思います。ヒアウィーゴー!


橘 玲『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』
   『不愉快なことには理由がある』
   『バカが多いのには理由がある』
この人の書く内容を一言で表すなら、「身も蓋もない」です。現代社会のさまざまな問題を、遺伝と進化という観点からズバズバと切ってゆきます。おもしろい本ばかりなのですが、ただし、異なる本でも内容の重複が多いのでお気をつけを。
サイモン・シン『フェルマーの最終定理』
ここ二ヶ月で読んだ本の中でベスト。300年以上解かれなかったという有名なフェルマーの最終定理をめぐる数学の歴史を、素人にもわかりやすく書いてくれています。ピタゴラスからアンドリュー・ワイルズに至るまでの数学者群像劇でもあります。
アポストロス・ドキアディス『ペトロス伯父とゴールドバッハの予想』
これも数学の話ですが、こちらは小説。あたかも、「ワイルズがフェルマーの最終定理を証明できなかったらどうなっていたか」を描いたような内容。ですが、問題となるのはゴールドバッハの予想。実在の数学者が多数登場したり、ゲーデルの不完全性定理の登場という大事件が緊迫感を持って描かれていたり、非常に楽しい。ちなみに、ゴールドバッハの予想はいまだに証明されていません。
清水潔『桶川ストーカー殺人事件 遺言』
99年に埼玉県桶川市で起こったストーカー殺人事件についてのノンフィクション。清水記者が取材した異常な事件のことがスリリングな筆致で描かれています。ストーカーの怖さと同時に、事件を担当した埼玉県警上尾署の異常さについても生々しく描かれていて、背筋の寒くなる思いがします。
井川意高『熔ける 大王製紙前会長井川意高の懺悔録』
かつてニュースを賑わせた大王製紙前会長の手記。100億をカジノで失った人物の回顧録で、生い立ちからギャンブルにのめり込んで自滅するまでを描いています。懺悔録という割には誇らしげな筆致の部分もあり、逆にリアル。最初の2ページは圧巻なのでぜひ。
スーザン・ケイン『内向型人間の時代』
タイトルのままです。オタク、ネクラ、引っ込み思案、ネガティブなど、多くの蔑称がある内向型人間ですが、むしろ内向型だからこそいいのだという主張の本。 さまざまな文献や研究をフォローした上で書かれた読み応えのある内容となっています。内向型のよさをアメリカ人が訴えるというのはおもしろいことです。
岸田秀『ものぐさ精神分析』
メインとなるのは日本近代の精神分析。岸田によれば、日本は黒船来航によってトラウマを負い、精神分裂病になってしまったのだとか。この説に賛成するかどうかは別にして、よく言及される書物なので基礎知識として読んでおいて損はないと思います。やや厚い本ですが後半は単発的なエッセイなので、気になるところだけ拾い読みするというのでもいいと思います。
未上夕二『心中おサトリ申し上げます』
野性時代フロンティア文学賞受賞作。言葉を思い通り発せなくなった主人公が山でサトリという妖怪に出会い、奇妙な共同生活をしながら言葉を取り戻そうとする物語です。サトリは人間の心を読むことができる、少年の姿をした妖怪なのですが、このキャラが生意気なのにかわいくて秀逸です。
小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』
ラーメンズの小林さんが書いた単発エッセイ形式の創作論。これを読むと、ラーメンズのブランディングがいかに意識的になされているかがわかります。まさに、ストイックという言葉がぴったり。クリエイターをめざしている方には非常に参考になるし、鼓舞される内容となっています。

2014年9月18日木曜日

投稿歴

私が応募した新人賞とその結果です。結果が出るたびに随時更新してゆく予定。

(最終更新日 2016/03/29)



2009年 群像新人文学賞        1次落選
2010年 文藝賞            1次落選

2013年 小説すばる新人賞       3次落選
     野性時代フロンティア文学賞  2次落選
2014年 ポプラ社小説新人賞      1次落選
     本のサナギ賞         1次落選
     野性時代フロンティア文学賞  2次落選
     ボイルドエッグズ新人賞    落選
2015年 ダヴィンチ「本の物語」大賞  落選
     野性時代フロンティア文学賞  1次落選
2016年 小説現代長編新人賞      1次落選
     小説すばる新人賞       1次落選

2014年9月15日月曜日

ローレンス・クラウス『宇宙が始まる前には何があったのか?』

ここ半月、小説以外の本をむさぼるように読んでいるのですが、その中の一冊をご紹介します。この数十年の宇宙論・素粒子論について紹介した、ローレンス・クラウス著『宇宙が始まる前には何があったのか?』です。

タイトルの疑問に対する答えを先に言ってしまえば、それは「無」です。つまり、宇宙が始まる前には何もなかった。けど、これは普通の考え方、常識に反するものです。身の回りで起きるあらゆる出来事、あるいは天体の運動だってそうですが、何にだって原因はあると考えるのが普通です。しかしクラウスは、最新の科学に照らして考えると、無から何かが生じることはありうるし、むしろ生じなきゃいけないのだと語るのです。

ただし、このお話がメインとして語られるのは本の後半。そこに至る前には、人類が素朴な宇宙観を持っていた頃のことも書かれています。相対性理論の登場、ハッブル望遠鏡が捉えた驚くべき銀河の動き、不思議な量子論などなど、魅力的なエピソードが盛りだくさんなのですが、私がいちばん心を動かされたのは、第七章「二兆年後には銀河系以外は見えなくなる」でした。

二兆年後には銀河系以外は見えなくなる。それはどういうことなのか?

現在、天の川銀河に属する地球からは、何千億という数の銀河を見ることができます。お隣のアンドロメダから、百億光年以上離れた銀河まで、たくさんの銀河、天体が観測できます。けど、ハッブル望遠鏡によって初めて観測されたように、それらの天体はすべて、私たちのいる銀河から遠ざかっているのです。

たとえて言いますと、たくさんの点が打たれた風船が膨らむと、点同士の距離というのはすべて離れていきます。それと同様、宇宙自体、空間自体が膨張しているから、銀河同士もどんどん離れていってるのです。しかも、どうやらそのスピードは増しているというのです。さらに驚くべきことに、そのスピードはいずれ光の速さを越えてしまうらしいのです。それが、二兆年後。

となると、どういうことが起きるか。二兆年後、この銀河の外のあらゆる天体は、原子一個残さず、すべて観測不能な場所にまで飛び去っています。光速以上のスピードで去っていったわけですから、その未来においては、もう今日のように多様な天体を観測することができません。空には天の川銀河しかないという寂しい状況です。

もしその時代に知的生命体がいて、宇宙について研究している人がいたとしても、そんな宇宙では、今日のような知識を得ることができないのです。たとえば、ビッグバンがあったとか、宇宙の寿命がこれくらいだろうとか、そういった多くの知識は、遠くの天体を観測できたおかげで得られたものです。けど、はるか未来の人たちは、そういう手がかりを一切失ってしまうのです。

彼らはどれだけ力をつくし、テクノロジーを駆使しても、おそらく、私たちが知り得た宇宙像に到達することはできません。彼らにとっての宇宙は、むしろ、何百年も前の素朴だった頃の宇宙像に近くなっているのです。つまり、茫漠とした闇の中に、この宇宙だけが無限の昔から無限の未来まで浮いているというものに。

これは、想像してみると恐ろしいことです。何が恐ろしいって、おそらく、その「現代ではまちがっている宇宙像」が、彼らにとっては「真実」だからです。もし、実験と観測に基づくという科学の精神を保持するなら、彼らにとっての真実は、上記のような寂しい宇宙像にしかなりえません。それは、私たちが嘆いたところで、どうしようもないことです。こうなってくると、真実とは何かという基本的な部分がぐらついてきますね。

と、こういうお話がいちばん私にとっておもしろかったのですが、本書は全体にわたってユーモアと諧謔に溢れており、読物としてすばらしいです。値段も1600円と、この手の本にしてはなぜか格安なので、非常におすすめです。

2014年9月13日土曜日

コンテンツ体験の濃さ

小説や映画やアニメなど、世の中にはさまざまなエンターテイメント作品がありますが、その受容の仕方もまたさまざまです。今回は、作品を受容するという体験の濃さについて考えたので、書いてみたいと思います。

よく言われることですが、作品を楽しむためには、受容する側がたんに受身なままではいけません。それだと、作品のおもしろさを味わい尽くすことができない。ある程度は、小説を読みながら、映画やアニメを鑑賞しながら、考えることが必要です。つまり、歩みよることが必要になります。

そして、この歩みよりがどの程度必要になるのかは、ジャンルによっても個々の作品によっても変わってきます。たとえばテレビ番組は歩みよりがかなり少なくて済むメディアだと言えるでしょう。テレビ番組は、家事をしたり途中で風呂に入ったり、何かをしながらでも楽しめるように作られています。一方、一般文芸の小説は読み手がかなり集中して頭を働かせないと楽しめません。文章から情景を思い浮かべたり、登場人物の関係を整理したり、行間を読んだりと、かなり能動性が求められます。

この歩みよりの必要さの度合いを、コンテンツ体験の「濃さ」と呼びたいと思います。

たぶん、この感覚は多くの人が感じていることだと思います。気力が充実しているときは古典文芸などの濃いコンテンツを求め、疲れているときはテレビやゲームアプリのような薄いものを求める。こういう経験はだれしもあるのではないでしょうか。

さて、無数のコンテンツに囲まれ、日々おもしろいものを求めていると、やはりなるべく濃い体験をしたいと思うのが人情だと思います。薄いものばかりでは充実感が得られませんし、経験の蓄積も得られません。

では、濃い体験をするにはどうすればいいか。

第一に、受け手に対してより多くのコミットメントを要求するようなものに当たる、ということがあると思います。少し敷居が高いように感じても、難しそうな古典文学や哲学書に手を伸ばしてみる。そして、静かな環境で集中して読む。こうすることで、濃い経験を得られるし、さらにはそうしたタフな作品を味読する力がつくのではないかと思います。

第二に、労力を払うということも有効だと思います。濃さとは、受け手の側の歩みよりだと書きましたが、それは、考えるとか想像することだけには限りません。ライブに足を運ぶとか予定を空けるとか、そうした物理的なことも含みます。DVDで済まさずに実際にお笑いライブ、コンサート、落語などに出かけることで、より濃い体験ができるのではないかと思います。

第三には、金銭を払うということ。最近ではネット上に無料のコンテンツが溢れています。違法合法を問わず、無数の音楽、映像作品、小説が転がっています。しかし、無料で手に入るということは、こちらからの歩みよりが少なくて済んでしまうということでもあります。やはり、ある程度の金銭を払うことにより、「元を取らなきゃ」とか「お金を払ったんだから」という意識が働き、こちらのコミットメントの度合いが高まり、よりコンテンツを楽しめる状態になるのではないかと思うのです。

ネットには無数の情報やコンテンツがありますが、それらをいくら漁っても、何となく物足りなく思うことがあります。ときにはおもしろいものも見つけ、楽しみますが、どこか体験としては物足りない。すぐ忘れてしまう。蓄積されてる感覚が乏しい。こうしたことは、ネットにあるものを受容するとき、私たちの歩みよりが少ないからではないかと思うのです。つまり、濃さがない。

最後まで来てなんですが、この「濃さ」という概念はあまり一般化されていないし、はっきり意識されることも少ないものです。けど、コンテンツ体験が濃いか薄いかということを意識し、より濃いものを求めることで、もっと多くのおもしろいものに触れられるのではないかと思っています。作り手の側としても、念頭に置いておくべきことでしょう。

2014年9月3日水曜日

本のサナギ賞 一次落選

八月は丸々更新をサボってしまいました。清水です。

さて、七月末に応募していた本のサナギ賞ですが、本日ホームページにて一次選考通過者の発表がありました。

結果は、落選!

応募総数265本で、一次通過は9本のみなので、なかなか厳しいですね。

私ははやくも敗退ですが、受賞作は初版2万部、装丁や販促まで著者が深く関わるという変わった賞なので、こんごどのように展開していくのかは気になります。観察していくことにいたしましょう。

にしても、一次落ちはやはり少しショック。通ると思ったのになー。

次だ次。次があるさ!

2014年7月30日水曜日

新人賞応募原稿の作り方(画像あり)

本日、本のサナギ賞に応募しました。

この賞は今年創設されたばかりなのですが、なんと大賞受賞作は初版2万部確定という太っ腹の賞なのです。普通、新人賞受賞作は4000部とからしいので、これは破格と言っていいでしょう。

で、今回の記事のテーマはと言いますと、応募原稿の作り方、封筒の書き方などです。投稿歴がある方ならすでにやり方はわかっているでしょうが、初心者の方は迷うことがあるかもしれません。案外、ネット上に画像付きで解説してるものは見当たらないですし。

ということで、以下、説明していきます。


応募要項を見て住所を書きます。ここは縦書きでも横書きでもオーケー。最後に「御中」を付けるのを忘れないようにしましょう。赤ペンで下の方に「応募原稿在中」と書きます。……しかし、丁寧に書いたのにけっこう字が歪んでるなぁ。



封筒の裏。自分の郵便番号、住所、本名を書きます。一応、作品名も書いておいた方が、先方としては便利かもしれません。



ほとんどの新人賞ではあらすじの添付が求められます。指定の字数以内で最初からオチまで、すべてストーリーを書きましょう。作品自体といっしょに綴じない、という場合が多いです。



原稿本体はしっかりと綴じます。他のホームページでは紐で綴じる方法も紹介されていますが、画像のようなダブルクリップがいちばん一般的だし便利だと思います。右上で綴じます。今回は32mmの大きさのものを使いました。A4で100枚前後だとこれがぴったり。選考が上の方までいくとコピーを取る必要があるので、まちがってもホチキスでとめたりノリ付け製本などしてはいけません。



原稿の表紙。タイトルと筆名と原稿用紙換算枚数を書きます。どんな賞でも共通でしょう。筆名には必ずルビを振るか、括弧を付けて読み方を示すように。タイトルも、難読の場合は振りましょう。ちなみに、この表紙を1ページ目とするか、次から1ページ目とするかたまに迷いますが、ま、指定されてなきゃどっちでもいいんじゃないのかな。



原稿には必ず通し番号、ページ数を入れます。フッターの真ん中か左下が一般的ですね。今回は左下という指定があったのでそうしました。選考中に原稿がバラけることもあるので、これは必須です。ページのことはノンブルとも言います。なぜかって? 知らなーい。


今回は普通の封筒を使いましたが、不安な人は中が薄いクッションになっているものを使ってもいいと思います。防水性もあるので便利です。ビニールやサランラップなどで原稿をぐるぐる巻きにするのは開ける人がめんどくさいのでやめておきましょう。

あと、画像は出してませんが、本名、生年月日、電話番号、略歴、住所、メアドなどを書いた紙を一枚封入する必要があります。略歴に何を書いたらいいのか迷う方もいるでしょうけど、出身地・最終学歴・現在の職業くらいが書いてあれば十分のようです。むしろ、余計なことは書かない方がいい。アルバイト先に出すようなしっかりした書き方にする必要はありません。

2014年7月21日月曜日

カレン・テイ・ヤマシタ『熱帯雨林の彼方へ』

すごくおもしろいです、これ。

書店でたまたま見つけて買ったのですが、読み始めてすぐ惹き込まれました。突拍子もないストーリーに超個性的なキャラクターがたくさん出てきて、私にとってはごちそうです。

舞台はブラジル。日本人のカズマサがやってきて、仕事を探すというあたりから物語は始まります。語り部はなんと、カズマサの目の前に浮遊する謎のボール。このボールはあらゆることを知っており、他の人物のことも次々語っていくのです。

登場人物はざっとあげるだけでも、敏腕会社員で3本の腕を持つJ.B.、巡礼によって奇跡を起こすシコ・パコ、伝書鳩の一大通信網を作り上げるバティシュタ、羽学の始祖であり権威のマネ・ペーナなど、わけのわからない人々ばかり。

そして、話の中心となるのはブラジルの奥地に突如出現した謎の黒い物体マタカン。このマタカンを主軸として、かれらの群像劇が展開されていきます。

あまり詳しいストーリーには触れませんが、次々にいろんな人物が出てきて話が大きく展開していくさまは圧巻です。こんなにぶっ飛んだストーリーの話にはなかなかお目にかかれません。


さて、なぜ私が書店でこの本に惹かれたのかと言いますと、もともと私が好きだった小説、マリオ・ヂ・アンドラーヂ『マクナイーマ つかみどころのない英雄』との類似性を感じたからです。『マクナイーマ』はブラジル人がブラジルを舞台に書いたもので、とんでもない内容の本でした。ぶっ飛び具合でいうとこちらの方が上。それで、『熱帯雨林の彼方へ』も手に取ってみたという次第です。ブラジルという土地は人間の想像力を飛翔させる何かがあるのかもしれません。

よければ読んでみてください。

2014年7月20日日曜日

新人賞のよもやま話

当ブログにはエンタメ系新人賞のまとめという記事がございまして、随時更新しているのですが、これがもう月に一回とか二回のペースでやらないと現状を反映できないような状況になっています。

当初は、一回しっかり調べて書けば半年くらい放置しても大丈夫だろうという見込みでいたのですが、それでは全然間に合わない。日々、新しい情報が入ってくる。それほど新人賞の創設・廃止はハイペースで行われているのです。

さて今回は、そんな情報を集めている中で感じた新人賞界隈のことを書いてみようと思います。

まず、最近創設されたりリニューアルされた賞に共通していること、それはやはり、書店員の審査への参加でしょう。日ラブ、本のサナギ賞、ダ・ヴィンチ「本の物語」大賞はそれぞれ書店員が審査に参加するということをうたっています。これは明らかに本屋大賞の影響。すでに出版された書籍が審査対象となる本屋大賞の成功を、何とか新人賞でも実現できないかという目論みが見て取れます。

ちなみに、この三つの賞は、やや似た傾向であるにもかかわらず、すべて七月末を〆切として設定しています。なぜこれほど同じ時期に密集させたのか謎です。素人目からするとエンタメ系新人賞の〆切が少なめの年末や年明けくらいにずらせばいいのに、とも思うのですが、そこは何か業界の事情があるのでしょうか。

一方、大手出版社が主催でプロの作家が最終審査をする新人賞も一定数存続しています。新潮エンターテインメント賞は消滅してしまいましたが、小説すばる新人賞はいまだ有力な賞として継続していますし、野性時代フロンティア文学賞は審査員を全員一新して2014年から新しいスタートを切りました。

他に目立つ動きとしては、ネット発の新人賞が出てきて、しかも規模が桁違いであるということ。なんと、今年のスマホ小説大賞の応募総数は9900作品だそうです。たしかこの賞はエブリスタという小説投稿サイトにアップロード済みのものも応募できるというものだったので、次回以降も同程度の作品が集まるかどうかは不明ですが、しかし1万近い応募数というのはおどろきです。

それから、エブリスタに限らず、広くネット上の小説すべてを審査対象にするという新潮文庫NEX大賞というものも創設されました。これに至っては「応募」という概念さえなくなり、編集部の人が勝手にネット上から小説を探し、それを文庫にするというのです。さあ、声を揃えて言いましょう。「それって新人賞じゃなくてスカウトじゃね?」

ともあれ、これだけエンタメ系新人賞が増えているというのは、ワナビにとってはたまりません。純文学の方はこれといって新しい賞ができたという話はなく、従来通り、数個の賞しかありませんが、エンタメの方は登竜門がいくつもある。とても嬉しい状況です。

ですが、世の中の流れというのはあっという間に変わるもの。この新人賞バブルもいつまで続くかわからない。この流れが途絶えないうちに受賞し、デビューしてしまいたいものです。

2014年6月30日月曜日

ワナビとしての近況

ところで、この頃ワナビとしての近況をここに書いておりませんでした。一応、ブログタイトルにワナビと掲げているのですから、たまには書いておこうと思います。

前回はたしか、映画をよく見ているだの何だのと書いた気がしますが、それだけではありません。ここ一ヶ月ほどでまた賞に応募したのです。それも二編。応募先は次の二つ。

ポプラ社小説新人賞と、野性時代フロンティア文学賞。

前者は初挑戦の賞であり、後者は二年目となるものです。こちらは前年、二次で落選してしまいましたが、こんどはもっと先までいきたいなと思っています。

さて、そして六月の中旬からは本のサナギ賞という今年初公募となる賞に向け、新しい作品を執筆中です。構想5日、〆切まで二ヶ月弱という強行日程で筆を取ったのですが、なかなかこれが順調。すでに6万字ほどまで進み、このペースならば十分間に合いそうです。

ちなみにこの本のサナギ賞、選考委員に書店員50人が参加という異例のものです。たしか日本ラブストーリー大賞にも書店員が選考に参加していたと思うのですが、それより深くコミットしております。まさに、主催者が掲げるように「本屋大賞の新人賞バージョン」です。こんなおもしろい賞、応募するしかないでしょう。

今後はさらに、9月までにはボイルドエッグズ新人賞にも応募予定です。こちらはすでに原稿は完成済み。ということで、半年以上応募しない期間が続いたわけですが、現在私は応募ラッシュを迎えております。数ヶ月後には次々に結果発表があるというわけで、楽しみですね。

落選の山に埋もれてむせび泣く、という未来もありうるわけですが。

2014年5月7日水曜日

おすすめ映画10選

すっかりご無沙汰しておりました、清水です。

なんでしょう、タイトルに「ワナビ」と入れてしまった手前、ワナビとしての動きがないとつい更新する気にならず、放ったらかしとなってしまいました。目下のところ、応募中の作品もないし、次に応募するのは早くて7月末の予定。

とはいえ、ワナビとして何もしていないわけではない。執筆もしつつ、ここしばらくは映画鑑賞に耽っておりました。これも、物語の勉強として無駄ではありますまい。そんな映画三昧の中で、今回はとくによかったものを10個、短くご紹介します。


『キック・アス』
幼女が成人男子を虐殺する映画。

『さんかく』
ヒロインの少女エロすぎ。

『チョコレート・ファイター』
観てるだけで痛い!

『くもりときどきミートボール』
タイトルで損してる映画NO.1!

『マルサの女』
山崎努最高。

『アイアンマン3』
おまえが倒すのかよ!

『ダイアモンドは傷つかない』
やっぱ山崎努最高。

『恋愛小説家』
犬をダストシュートにドーンっ!

『アポカリプト』
ちんちんに何を塗らせるんだクソジジィ!

『ヤング≒アダルト』
一生そうしていやがれ田舎っぺども!


というわけで、それぞれの作品の魅力が伝わったと思います。ではまた4ヶ月後くらいにお会いしましょう。

2014年1月11日土曜日

野性時代フロンティア文学賞 二次落選

本日は待ちに待った野性時代2月号の発売日でした。

もうだいぶ慣れてきたこの感覚、でもドキドキするのは相変わらず。そう、新人賞の通過発表です。今月号に、野性時代フロンティア文学賞の二次選考通過作品の発表があるのです。

いそいそと身支度をし、いつもよりほんの少し暖かい空気のなかを、自転車をこいで大垣書店へ向かいました。店内に入り、文芸誌のコーナーへ向かいます。すると、あったあった。白っぽい表紙の野性時代最新号が。

緊張しつつ表紙をめくり、もくじでお目当てのページを確認してそこを開くと、30本の二次予選通過作品がずらっと掲載されておりました。なかなか大きなフォントで。

で、それを右から順番に見ていったのですが、えっと、あ、あれ……ない? 私の作品名も、名前も、ない。まさか。そんな。うろたえて、何度も右へ左へ視線を走らせます。が、やはり、30本の作品名のなかに、私の作品タイトルがないのです。次のページをめくってみましたが、そこはもう別のページ。

二次選考落選です。

がっかりです。

正直、二次までは通過できるのでは、と思っていたのですが、それほど甘くはありませんでした。973作品中の30本ですから、ま、やすやすと通過とは行きませんね。

しかし、これで気がかりなことがひとつ減り、次へ進めるというものです。また鋭意、新作を書いていこうと思います。ちなみに、他に応募中の作品はないので、次に予選通過だの落選だのというネタが書けるのは半年後以降となってしまいます。ちょっと寂しいなぁ。

2014年1月7日火曜日

明けました

明けましておめでとうございます。

年末年始は埼玉の山奥にある実家に帰省し、自然のなかでゆったりと過ごして参りました。寒々しい景色のなかにポツポツと点在する柿の実と南天の実の鮮やかさ、美しさは格別ですね。

さて、年が明けたことに伴い、当ブログは『不思議の国のコラム』から『不思議の国のワナビ』へと改称することに致しました。気づけば記事の多くが小説や新人賞の話題となっていますし、そもそも当初からコラムなんか書いていなかったので、実態に合わせるかたちとなります。

思えば、昨年ははじめてエンタメの長編小説を書き上げ、また、一次通過二次通過といった喜ばしい結果も得られ、実り多い一年でした。今年も昨年からの努力を継続し、よりいっそうの進歩を果たしたいと思います。

ところで、ワナビ、という言葉についてですが、これは定義の難しい言葉です。元来は英語のwanna be、つまりwant to beからできたネットスラングなのですが、文脈や話者により意味は微妙に異なっています。ライトノベルの作家志望の者、一般文芸も含めた作家志望の者、作家志望だけど努力が伴っていない者、などなど。

私の場合は、エンタメ、つまり一般文芸の作家をめざしている者ですので、ワナビと名乗るのが正確かどうかはやや微妙ですが、ま、いいじゃん、ということでそう名乗ることに致します。はじめまして、ワナビです。

そんなわけで、今後は主に新人賞に投稿した作品の結果だの小説についてのあれこれだのをここに書いていこうと思います。もちろんそれ意外のことも気が向いたら書きますが。

では、また今年一年よろしくお願いします。