2016年4月12日火曜日

退屈の問題

南米ウルグアイの元大統領、ムヒカ氏が来日している。おととい、夜のニュースで特集されているのを観た。

ムヒカ氏がよく言うのは、日本人が働き過ぎているという問題である。お金のために時間を切り売りし、それによって自分らしい時間、好きなことをする時間がなくなっているという指摘である。事実、そうだろうと思う。フルタイムで働いて、おまけに残業まであったら、自分のための豊かな時間を持つことは難しい。

しかし、そこには一つ見落とされた問題がある。それは、退屈だ。

多くの人が働き過ぎているという。だが、もし時間の切り売り労働をやめ、毎日あさから晩まで自由に時間を使えるとなったら、ほとんどの人はこう感じるだろう。「退屈でたまらない」と。

暇だとか退屈というのは、現在、不当に甘く見られているように感じる。ショーペンハウアーのような卓越した思想家は、退屈がとんでもない害悪を人類にもたらしうると洞察しているが、一般的にはあまりそのリスクな認識されていない。かれの時代よりかなり豊かになったはずの現代日本でも、貧困や戦争の問題が語られる一方、退屈は真剣に受け取られていない。

おそらく、退屈が予想外にシビアなものだと感じている人はいる。定年退職したサラリーマンは、たぶんそれを感じている。あまり表には出てこないが、とくに何の予定も見通しもない年単位の茫漠たる時間を前にして、途方に暮れている人は多いのではないか。

さて、退屈への対処法にはいくつか考えられるが、まず、何かに飽きない人というのはある意味つよい。テレビでも旅行でも社交でもゲームでも、飽きずに延々と続けられるなら、それでいい。馬鹿っぽい感じはするが、退屈への対処という点では有利だ。だが、普通は何にしたって飽きる。娯楽というのは、一般に、飽きが来るものだ。娯楽=レジャーは、ふだん働いてる人がするから気晴らしになるのであって、それだけやるというのは無理がある。

では何をしたらいいかと言えば、それは勉強か技芸か創作だろう。いずれも、娯楽としても享受されるが、それを越えたものである。しかも、終わりがないという最大のメリットがある。語学や歴史、何でもいいが、これらの勉強は終わりがない。やればやるほど奥の深いものである。勉強が研究になり、学位取得までめざせば、数年はすぐにかかる。技芸もそうで、踊りや武道、茶道、華道、こういったものが終わりがなく、何年でも続けられる。そして、創作。いちど創作にハマれば、それは死ぬまで続けられる。小説に関して言うと、ある程度書き方を身につけてしまえば、あとはいくらでも書ける。ひとりでやれるし、だれにも迷惑はかからないし、勉強したことを活かすこともできるし、永遠に終わらない。

退屈の問題が直視されたとき、勉強や技芸とならび、創作はまた新たな脚光を浴びるのではないだろうか。

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