2016年6月28日火曜日

飽きる力

ちょっと前に流行した新書風のタイトルにしてみた。今回は飽きることについて、しかもそれを能力として捉えて、考えてみたい。

なにかに飽きるというのは、いいことなのかどうか。まず、それまで好きだったものを好きでなくなるという点から考えれば、これは寂しいことであり、歓迎すべき事態ではない。ずっと好きだったものが楽しめなくなるというのは悲しいことだ。

だが一方、同じようなものを延々と飽きずに楽しめるというのも問題がある。時間をつぶすという点ではいいが、同じようなものばかりに接していると、新しいものを取り入れられない。本来、自分が潜在的に好きなはずのものすら、視界に入って来ないおそれがある。これは重大な機会損失だ。

そして、自分が作り手になろうと思えば、何かに飽きないということは、致命的ですらあるかもしれない。

たとえば小説でもいい。既存の小説にずっと飽きず、いくらでも読んでいられるならば、それで十分楽しい。満足できる。となると、わざわざ自分で新しいものを書こうという気にならないだろう。つまり、飽きないということは、創造性を育まないのだ。すでにあるものに安住するようになってしまう。クリエイションは往々にして、すでにあるものに飽き足らないから、それを改変したり換骨奪胎して新しいものを作り出すという流れになっている。だから、「飽き足りている」状態というのは、クリエイターにとっては致命的だ。

そうなると、理想的には、どんどん好きなものを増やし、それらにどんどん飽きていくべしということになる。次々に新しいものを取り入れ、飽きていくというサイクルがいいということになる。だがそうなると、一つのジレンマに直面する。つまり、そんなことを続けていたら、いつか楽しいものがなくなってしまうんじゃないかということだ。

もちろん、小説にしろ映画にしろ漫画にしろ、すでにコンテンツというのは人間が一生かかっても消費しきれないほどのアーカイブは存在している。だから、未消化のものは常に膨大に残る。だが、そもそもジャンル自体に飽きるという可能性はある。そうなったら、寂しいことにならないか。

享受する側としては、実際、寂しいかもしれない。けれど、そうなったら、やはり自分で新しいものをどんどん作るか、あるいはもう、まだ飽きていないジャンルに移るしかないのだろう。飽きる力の向上には、少し哀しい運命が待ち受けている。

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